「埋め墓」と「詣り墓」の感覚 西小五輪塔再掲

先日の史跡研究会の雑談の中「今がチャンス」との言葉が。

その方は春日大社国宝殿の特別展「最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展」(後期 令和2年2月1日・土~3月1日・日)にタ―ゲートを絞っているようですが、この「今が・・・」というのが新型コロナウィルスのせいで京都奈良のごった煮の如くの混雑が解消されるようになったということです。

実は私もやはりこれは「チャンス」と狙っている一人ですが。

 

さて、私たちは人が亡くなればお寺の境内にある代々墳墓に納めることになります。

こちら中部東海圏での形式には見られないと思いますが、場所によっては埋葬の件共同の墓地に納めるといった慣例が続いている地域もあったりしますね。

そういった墓地に出逢うのは関西方面になります。

 

その手の墓地はある程度民家から距離を置いた山間部に設けられていることが多いのですが時に大きな五輪塔が設置されていたりします。

以前記した当尾浄瑠璃寺近くの府道脇の西小の墓地にある五輪塔×2基(重文指定)ややはり当尾の東小墓地の五輪塔などですね。

それら五輪塔は鎌倉期のものといいますがこういった大型の「墓地を代表する」石塔の存在はインパクトがあります。

推測ですがそれを「詣り墓」(まいりばか)の風習があったのかも知れないというのがその印象です。

「詣り墓」は「忌明塔」とも考えられていて、そちらですと石清水八幡宮麓の巨大五輪塔がありました。

 

古い墓地に見られるものですが、このような五輪塔の存在はその墓というものに埋め墓」と「詣り墓」の二通りに「分けた」歴史を推察します。

といってもその「二通り」の件江戸期あたりからの流行といいますからそれほど古いとは言えないようですが・・・

これは江戸期から死者の埋葬の件、ある程度地域でそのルールを決めたことからその「二つの墓」がしっかりと分かれたと推察されますが、もともとの発祥といえばやはり山野に遺体をそのまま置いて帰ってくる形式(~九相図)が元でしょう。

要は「遺骨を残す」ことに墓の主体はなく、身近な場所にある「詣り墓」をまさに故人を弔う墓として参詣の対象としたものです。

 

遺体の葬送に関してその度ごとに山に無造作に置かれては「不気味」であること、何よりも衛生面でも具合が悪くまして山奥まで遺体を運ぶのは相当の労力となりますからね。

そこで手近な野山に共同墓地を作るワケですが、やはり当初は土葬墓、特に経済力の無い人々はその形式を選択せざるを得ませんでしたが・・・、となります。

ところがやはり衛生面+迷信的死穢観(死者への畏怖)からその埋葬場所には近寄らずに、墓地の入り口や小高い場所に設えられた石塔を「詣り墓」としていたという歴史があります。

埋葬した場所に「標」(石・木など)を残す場合のその有無もまちまちです。

 

パターンは色々あったはずですが、埋葬墓(埋め墓)もその敷地の広さに限界がありますので、遺骨を掘り起こしたりそのまま重ねて埋葬したり・・・また時間経過後拾った遺骨や土を集めて改葬、小墳墓と改めたりと各コレといった決まったものはないようです。まったくまちまち。

 

これら墓地を代表する古い大型石塔が当初からそちらにあったのか、その「詣り墓」として移動されてきたのかわかりませんが近代になって「火葬」が主となって「死穢」感は薄れ各家で小さな「標」墓石を設けるという習慣が出来、今それらが混在しているというのが現状でしょう。

 

以下「奈良県史7石造美術(清水俊明氏)」の五輪塔記述抜粋しました。

 

五輪塔 

「大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)として信仰され、真言念仏者にとっては、それ自体が供養の塔であった。

弘法大師の七七日の供養に、その墓上に建てた五輪卒塔婆が、五輪塔の始まりともいわれる。

 

大和の古い惣墓地にはよく古く大きな五輪塔が中央の高い所に一基建っていることがある。

これは忌明塔とも称し、死者の遺族は死者をその墓地に埋めた後、七七日の忌までこの塔に詣り、死者の荒魂(あらみたま)の霊を鎮めるため供養し、忌の明けた四十九日(七七日)になると、この塔に死者の霊と別れを告げ、それ以後は和魂(にぎみたま)となった死者の霊を別の墓塔に移してその墓塔を供養したものである。

 

北葛城郡當麻北墓の五輪塔は大和最古の五輪塔で、藤原時代の造立と考えられ、宝塔様式が残っている。・・・・」

 

「埋め墓」を(「詣り墓」のことを含む場合も)「三昧墓地」と言われますがこの二つの存在は、「肉体から離れる」という思想です。

その辺りは当流と同じですが、その「三昧」から死者は「旅に出る」(取り敢えず「三途の川」から)のだといいます。

ちなみに当流は「旅」の概念はなく念仏即浄土でした。

 

画像の当尾西小墓地五輪塔の奥の林の中には「埋め墓」がありました。