お美代 専行院が波さんの「旦那」江戸城富士見櫓

昨日の続き。

拙寺10代目祐賢の長女「波」(なみ)さんは大奥に上がってのお勤めのあと、お寺に戻る際に頂いた3つのお土産、ざぼんの苗木と木造聖徳太子そして「広大院から貰った」という着物についてブログでは重ねて記しています。

昨日は生地裏面に記してある波さんの父の拙寺十代祐賢の文言の波さんの「旦那」(夫の意ではなくボス)の名が「みて」ではなく「みよ」だったと推することができたことを記しました。

 

「江戸西之御丸御殿弐の側おみよ様乃御部屋」

 

「みよ」と言えば「お美代」でしょう。

その人こそ11代将軍徳川家斉の側室です。

そもそも家斉の正室の広大院からのお下がりの着物が誰だかわからない人を経由して貰えるワケがありませんからね。

そういった点からも藤田先生はおみてでなくお美代」と指摘されたのでした。

そうなるとこの「弐の側」(にのそば)について当初は建物の名と考えましたが「NO.2」、要はたくさんいる側室の中で「トップクラスに躍り出ていた・・・」と考えれば合点がいきます。

 

この波さんのボス「お美代」さん(家斉が亡くなっての名のりは「専行院」)は昨日も記しましたように大奥の歴史の中では何しろ傍から見て強烈なインパクトある人でした。

将軍家斉の寵愛は正室広大院に並み居る側室たちを飛び越えて周囲からの目は殆ど「やりたい放題」とスキャンダラスの図式だったでしょう。

まさかその人が波さんの親方だったというのは半ば驚き以外の何物でもありませんね。

 

以前「広大院の着物」の裏生地の家紋について私が勝手に阿部正弘ファンであった波さんがその家紋を秘かにしるしていたなどと記したわけでしたが(藤田先生はその件これも「貰ったものでしょう」と仰っていました)その勝手な私の推測、貰った着物にまつわる登場人物、安倍正弘こそ家斉隠居後12代将軍となった徳川家慶の政の時代の寺社奉行(老中首座は水野忠邦⋯天保の改革)に抜擢された人でした。

その仕事の皮切りに「大奥の綱紀粛正」を着手しますが、それによって彼女「専行院」はその縁者もろとも失脚・追放ということになります。

 

大奥での出来事は口外無用という掟があったのか、寺にはそちらでの出来事について波さんの回想など伝わっていませんが、ドラマチックな展開を目の当たりにしていたことは確かでしょうね。

 

ここにあらためて波さん時系列にお美代さん(専行院)を加えてみましょう。

お美代さんはその父と養父が失脚前後して押込(座敷牢)となったのが家斉が亡くなっての広大院が「一位さま」と呼ばれる前年。波さんが21歳の時ですが弘化三(1846)に相良に帰郷する26歳まで江戸城大奥に居たということですので、起こったお美代バッシングの色々と追放劇の巻き添えにはなっていなかったということは言えるでしょうね。

 

     相良   波さん   お美代          広大院

 

 

安永二(1773)                                                島津重豪娘鹿児島城生

 

安永五(1776)                後の徳川家斉と婚約 

 

                 ― 江戸城一橋邸へ 3歳

 

天明四(1784) 意知暗殺                11歳

 

天明六(1786) 意次失脚                13歳

 

天明七(1787)            近衛寔子と改める14歳

 

天明八(1788) 意次逝去 相良城破却                                  15歳

 

      相良 代官時代

 

寛政元(1789)              家斉と婚儀 16歳

 

寛政九(1797)      お美代生まれる  

文政二(1819) 阿部正弘 江戸にて生まれる

文政六(1823) 意正相良藩 3歳  26歳        50歳

 

天保八(1837)         17歳       40歳   家斉とともに西の丸

 

                     「大御台様」64歳

 

 

天保九(1838) 阿部正弘19歳 奏者番

天保十一(1840) 阿部正弘21歳 寺社奉行見習 同年寺社奉行

天保十二(1841)                        21歳  44歳  家斉死去

                     「広大院」68歳

                                   お美代押込(座敷牢)

 

天保十三(1842)         22歳       従一位「一位さま」

 

天保十四(1843) 阿部正弘25歳 老中

天保十五(1844)                         24歳      江戸城火災

 

                    半年後広大院逝去

弘化二(1845) 阿部正弘 27歳 老中首座

 

弘化三(1846)      相良帰郷 26歳  

 

          再登城があったのか波さんの動向不明

 

嘉永六(1853)   聖徳太子像  33歳

 

明治五(1872)             お美代 逝去 75歳

 

明治二十二(1889)      逝去 69歳

 

また嘉永六(1853)年波さん33歳の時に「聖徳太子像」を頂いていますが藤田先生とのお話しからどうやら伊達藩というのは関係なさそうな気が・・・代々そう伝わっていましたが・・・

聖徳太子像の麻布善福寺の寺侍らしき人の但し書きの詳細については波さんの注文下書きがあったことと考えれば波さんは江戸に舞い戻っていることが大いに考えられます。

 

とにかくお美代さんの下で働いていたことはまぁ間違いないところとして、その咎に連座しなかったことは確かでしょう。

それにしてもあの安倍正弘家の家紋の記された着物・・・ますます謎です。

安倍正弘から貰ったと考えると波さんはそちら側ともうまく立ち回っていたということでしょうか・・・?

 

画像は江戸城富士見櫓。

波さんは故郷相良を富士山の方角を見て懐かしんだのでしょうね。

最後の画像は昨日の東京からの富士山。東京から再びスマホに届きました。今年一番だったようです。

寒く晴れた日の富士山はキレイというのが定番ですが案外うまく見えるものですね。