以前は「CPR」心肺蘇生 最近は「DNR」蘇生拒否

通夜の雨予想は動かないところ。

よって3つのテントをバラバラにせず「ストレートに繋げよう」の提案を採用しました。

前回は山門を通して鐘撞堂の前に設置した受付が外からでも見えるようになっていました。

 

問題はテントとテントの継ぎ目から雨がつたわって落ちることですが、その継ぎ目用に別の素材を用意していただきました。

雨の吹込みもある程度は想定し、梱包用テープで巻きましたが、前線通過にともなう強風までは対応不可でしょう。

 

そもそもテントなど強風に曝されれば時として凶器に変わりますからね。大抵の師走の今頃といえば雨など降らないはずなのに・・・

 

大晦日は強風で荒れそうですが、テントはそれまで撤去せずに張ったまま、引っ張り続ける算段です。気休めのロープで縛っているものの無茶な風雨にならないよう、あとは天にまかせるのみですね。

 

さて、人には男親・女親、二人の親がいますが、やはり「母」への想いは父のそれとは違いますね。

これは釈迦の弟子目連(釈迦十大弟子の一人  阿弥陀経では「目犍連」―もくけんれん)の母が地獄に堕ちて苦しまなくてはならないというその理由がありました。

そのエピソードは盂蘭盆の由来で各お調べいただくとして、要は「母は子を溺愛する」ということ。

今の世は「そうとは限らない」風をしばしば感じることがありますが、まぁ普通はそれが常識ではあります。

 

よって地獄に堕ちなくてはならないほどの恩を受けた「子」としてはより母へ謝徳の心は起こるというものです。これは大抵の場合、「そんなものだ」と合点を得られるのではないでしょうか。

ということで今日もブログは母の事。

 

18日の僧俗研修会が終了し帰路につこうという頃、留守番の奥方から「救急車で運ぶので添乗する」との連絡。それが今回の件のスタートでした。

結果的に「良かった」とは思っていますが本来は介護施設で「看取る」ことを事前に承諾していましたので少々お話が違っていたのでした。

私が不在で「お話にならない」ということで機械的に救急搬送ということになりました。

 

酸素吸入器の装着によって病院到着後は通常とはいえませんが、あと3~6か月はもつのではないかと感じるにまで至りました。

19日に担当医から「リスクもあるが貧血なので輸血をしたい」旨伝えられそれを承諾。20日に入院の申請書を書いて21日に来る妹に保証人記入をしてもらうよう手配して帰宅していました。

 

まぁ結果的にその輸血は功を奏さず心肺停止ということになりましたが、とても不思議で驚きました。

後夜の頃の連絡でしたが、父の時は既にこと切れていましたので「それにしても結論を出すのが早いな」と思いつつ病室に駆けつけると、呼吸は数時間前に見た時より落ちているものの心臓はバッチリ脈打っていました。

安堵して妹たちが来るまでを待とうとこの様子をメールにて伝えようとした瞬間その機械はゼロの数字を示しアラーム音が病棟に響き渡りました。

 

まるで私の着到を待っていたかの如くのタイミング。

何より病院嫌いの母は「これ以上つきあえない」の最期のメッセージ、心臓を停めたのでしょう。

 

当然に心肺蘇生(CPR)はナシ。

沖縄のビーチに居た頃はそのCPRについては当然の如くの処置法として頭に叩き込まれ、拙寺においてもその精神を継承、AEDまで設置するに至っていますが現代の医療ではそのCPRや胃ろうなどの処置を断る風潮が広がっています。

 

蘇生拒否「DNR」は「末期的状態」の苦痛や「無意味」から「その時」の件、自らの意思で事前にそれを決めておくという考え方。

しかし、今回その気持ちではいたものの、救急搬送に点滴と輸血など、慌ただしい雰囲気の中にいて判断力はかなりブレました。

悩む色々について枕元でのひそひそ話。

耳の老化は無かった母の「それならこうだ!!」の絶妙だったのでしょう。

 

①②たくさんの御門徒さんが集まってのお手伝い。

御恩は忘れません。

 

③は先日「遺影バックの色は・・・青・・の母」が出来上がってきました。まったくOKです。

④は搬送されて検査後に説明を受けた際の医師のメモ書き。