小貫の浮島観音堂の管理(親寺)は意正院?

先日のお取越しで福井で起こった悲惨な事件について一同「何とかならなかったのか・・・」という溜息を漏らしたのですが、その御主人と両親の3人を一気に手にかけたその件、あまりにも衝撃的で単純に割り切れないものがありました。

3人の介護を独り抱え込んで日常を送る71歳のその方は「介護がしんどい」と発していたそう。

 

本来そういった境遇に居て、やらねばイケないことの色々を懸命に独りで背負いこんで淡々とこなしているような人がそのような言葉(しんどい)を発した場合、(本来強い心の持ち主だけに)周囲の者はそのサインを見落とすことなく「お節介」と後ろ指を指されようが首を突っ込んでまた、自治体の支援センターなどプロの意見を聞くようにと親身になることが大切です。

 

「老老」&「多重」の介護によって心身ともに疲弊した結果とは言えるのでしょうが、これからの日本が抱える重大問題です。お国としては介護すべき人たちが消滅してくれることは「負担が少なくなる」という算数の原理になるのかも知れませんが、これからどんどんその「老老と多重」は増え続けていきますよ。

年金の支払いだけでヒーヒー声をあげているこの国でまったくアテにはなりませんがこの問題は少子化と同様避けては通れないテーマです。

 

アルツハイマー等、病を患っての「壊れつつある人」の介護人が「また壊れる」という状況は悲惨以外の何物でもありません。

 

親や近親者の介護で仕事も辞めなくてはいけない人たちに、もっともっと優しい手を伸ばしてあげて欲しいものです。

手前の選挙区民を税金で賄う花見会にゴッソリ人数を招待するようなバラマキの余興があるのならそちらに少しでも分けてあげて欲しいというのが国民の本当の気持ちでしょうし、それを看過することは福祉と平等の権利を放棄するに等しいのでは。

 

そしてまた、私もいずれ年老いて「壊れていく」身なのですね。既に色々な個所に「ぶっ壊れ」が出現しつつあります。

特に今後「脳みその壊れ」だけは遅らせていかねばなりません。

 

さて、先日記した小貫の浮島観音堂について追記。

近所の方によれば「以前は人の集まる場所だった」と記しました。現在の寂しさと建屋の傷みにその修復の予算に頭を痛めているという感、伝わってきました。

人工減少によって子供がいないこともあるのでしょう。

しかし、寄合にしろ集会にしろそのような昔ながらの井戸端風時間というものが消滅したということ、風習・習慣・付き合いなどを生活の中に取り入れたいわゆる「お節介」世代が消えていったということでしょう。

その次世代といったらきっと面倒くせぇ、うざい・・・の言葉が出て来るのでしょうね。

 

①は観音堂前の図ですが、以前はこの辺りに相撲や芝居演劇が催されたといいます。

②は後ろにあった位牌を。

近くの浄土宗のお寺、意正院の六代目と七代目の方が。

なるほどと合点しました。

意正院は昨日の八相寺から小貫交差点方向に向かって右折(場所はこちら)。