家康のオランダ優遇 「蘭学」の興隆 解体新書へ

勝負は時の運。

ただし本気の南アは強かったです。

破れはしましたが初のRWCベスト8入りの果実は大いに楽しめました。

あとは世界屈指の強豪国同士の試合を楽しませていただきます。

勝手なことを記しますが「だったら予選2位通過でニュージーランドと」当たってもより面白かったかもなどタラレバ。

 

さて、駿府城二ノ丸坤櫓(直近ではこちら)は平成26年に160年振りの完成お目見えとなって地元では鳴り物入り、その完成式典が開催されていました。

その際出席したオランダ王国の特命全権大使のお土産がありました。家康が駿府城から発行したという朱印状のコピー。

 

以下静岡市サイトから。

「慶長三年(1598)にオランダ船の「リーフデ号」が豊後臼杵に漂着し、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が慶長5年(1600)に大阪で家康と面会。以後家康に優遇されることに。

「リーフデ号」乗組員は帰国後、家康が交易を望んでいることを報告した為、これを受けた国王が親書を持たせ駿府城に特使を派遣した。オランダからの特使の船は慶長14年に平戸に入港、同年7月駿府城の家康を訪れ、家康は慶長14年(1609)7月、朱印状を贈って、船の着岸の許可と長崎出島に商館を設けることとを許可。以降、幕末まで出島で交易を行った。」

 

ということでオランダのみ外交が許されていた江戸時代、海外の発展的発想、理科学、思想等の流入はオランダ経由で当然にオランダ色の強いものがありました。

またそれらが入る場所といえば長崎のみ。

 

それらの学びを「蘭学」といいました。蘭学といえば思い出すのが前野良沢。

特に日蘭の辞書の無い時代に1から時間をかけて『ターヘル・アナトミア』を解読し『解体新書』を編纂したという話は有名ですね。その翻訳・解読に主となって動き、それでいてその書に名を記すことをしなかった前野良沢の気概。

そのみち(蘭学)への傾注具合を見た中津奥平、藩主奥平昌鹿は彼を「蘭学の化け物」と呼び、それをまた彼は喜んで号を「蘭化」としたといいます。

 

彼らのへこたれない探求心が今の日本のノーベル賞選出御常連の根っことなって繋がっているのでしょうね。

「化け物」になれるってことはやはり勲章ですね。

 

スクラムの化け物、肉体の化け物たち・・・十二分に楽しむことができました。

私は何の「化け物」になれるか。野垂れ死んで化けるだけ・・・それもまた楽しみかも知れません。