諏訪原城崩れ?と倉沢 掛川二の丸美術館

昨日は400年前の戦場離散の甲州勢の件(高天神城崩れ)について旧大東と旧掛川の不仲について記しましたが、先日そのお話をされた方が言うには、旧金谷(現島田市)から菊川にもそれと同様の話があると。

 

島田市神谷城の先に菊川市倉沢という地がありますが、場所的には諏訪原城の南側の痩せた土地を思わす場所。

地名語源を推するに倉は暗で「くらさわ」は「暗い谷沢」のイメージが匂います(過去のブログ)。

なるほど主たる街道より離れてひっそりこっそりの感がありました。

 

その地に土着したグループが高天神城崩れならぬ「諏訪原城崩れ」だったと。

徳川方との武田方諏訪原城の籠城戦は武田方はあっさりと小山城へ逃亡したことによって開城したという歴史がありましたが、そういえば籠城方生き残ったすべての兵が小山城や甲州方面に逃げ帰ったとは考え難いこと。

 

その方が仰るにはその「くらさわ」にて帰農し耕作不適格な場所に棚田を展開したとの論。

鎧・武器を捨て名を変えるなどして武田残党の過去を消し去りひっそりと暮らしてきた家々の存在の示唆でした。

適宜昔の名にこだわる家は復姓し、または心に思いはあっても変更したままで今に至っているのだと。

なるほど、大いに楽しめるお話でした。

 

そして、掛川二の丸美術館で「高天神城と横須賀城展やってるよ」とのことで、それならということでさらっと覗いてきました。おしるし程度の出土品の展示がありましたが、私が一番に興味を惹いたのが横須賀城の隆起前の復元模型。

その撮影禁止の意味が判りませんでしたが、注目は「うばがふところ」。外洋に接していた横須賀城の船溜まりの様子がよくわかりました。そして隆起のすさまじさも・・・