うばがふところ  横須賀撰要寺 大須賀康高

中遠でこれほどの寺ファン・お墓ファン垂涎の風景を提供してくれる場所は無いのでは・・・。

小生、西の方角に行く用事があってしかも時間はたっぷりと余裕のある場合、東名高速では無くR150号を使って途中、ブラっと立ち寄ることがあるのがこちらのお寺。

大須賀康高創建の撰要寺です(場所はここ)。

 

安政の大地震の遠州海岸線一斉隆起以前はこのお寺から横須賀城の丘は遠州灘の入り江の先端部。

南東方向から西側に深く陸側に食い込んで広がる静かな湊風景でした(ブログ)。

 

全国的に、ポカポカで優しい感覚、穏やかな場所を「うばがふところ」=「姥懐」という名を残していますが、以前高天神城東側の谷あい、惣勢山砦から安威砦(場所はここ)の連なる台地の西側の川沿いをその様に呼んでいたこともいつか記させていただきました。

高天神城戦で家康がこちらに目を付けて城を築かせたのもうなずけます。当初は海戦用をも考慮して地元海賊軍を組織していたことでしょう。

 

 寺の山号は「景江山」。かつてあった入り江の絶景が推測できるというものです。お寺の宗旨は浄土宗とあってこの名なら勘のいい方ならピンとくるでしょう。

法然さんの「撰択本願念仏集」の「撰」、源信さんの「往生要集」の「要」です。阿弥陀さんにかかわるお寺で私の気持ちも十分に惹きつけられます。

 

 そもそもはこの寺のある丘こそが大須賀康高の高天神最前線の砦で、こちらに布陣しながら横須賀城の構築にかかったものと思われます。高天神開城後に大須賀家の菩提寺としてこの地に建てられました。

 

山門は、昨日ブログの横須賀城不開門(あかずの門)址の標識画像がありましたが明治期廃城時、こちらの寺に移築されました。直線で200mくらいでしょうか。

「丸に立葵」の紋は私が行くたびに劣化して今にも落下しそうになっていますが、こちらの門の建立は大須賀家によるものではなく12代目の城主本多利長の手によるものです。

 

不開門は城の最も西方、寺側にあった門でこの門が開く時は城の主家に葬儀があった時のみであったために、その様に呼ばれるようになったそうです。

 

①画像は撰要寺と横須賀城付近の古図です。矢印が撰要寺。

湊町の風情が想像できますが、今の変貌ぶり凄まじいですね。

地震の隆起とはこういうものです。

相良の湊も同様に衰退しましたがあの地震がなければもっともっと遠州の海運業は発展し、現在の状況とはまったく違った街と産業が興っていたかも知れません。

 

本堂漆喰壁は所々剥落が見られますが、このような姿も悪くはありませんね。

しかし放置していれば崩落する可能性があります。

門はかつて朱で塗られていたことが判ります。

 

最後の画像が現在の「かつて湊の最深部」。北東方向から見た撰要寺のある丘陵です(の古図☆印付近より)。