古来より人の頭を悩ませたもの 送蝗 蕉園渉筆  

午前は先送りにしていた静波墓苑の除草作業へ。

境内に戻ってからはこちらも遅々として手を付ける事が無かった鐘楼手前の槙の生垣の剪定に着手。

午後2時頃まで限定ということで始めました。

ボチボチやる気持ちで取り敢えず脚立を持ち出しましたが、夕刻からは通夜の出仕がありましたので・・・

 

地頭方の処理場に伐採した枝葉を持ち込みますが、帰りは滅多に使わない比木に下りる道を選択しました(→比木城山)。

ちょうど比木の加茂神社の前に出る道です。

最近の田圃の状況は一律ではなく、既に刈り入れ済のものもあればまだまだ未熟のもの、あるいは先日の豪雨で倒れてしまうほど実ったものなど色々です。

昨日はあの辺りで「只今収穫中」といった場面が2件ありました。

 

画像は①の杜が比木加茂神社(場所はこちら)。

②がその逆側からの図。刈り入れ済みでしょうか。風車のある丘の向こうに処理場があります。③は近くの畔の左右で生育(品種?)の違う田圃の図。④は静波墓苑の1カット。

 

さて、この田圃の稲の生育を見て感じるのが、今の時代の収穫量はとても安定的であってまた色々な種の選択や収穫時期の変化を試す事などができるということ。

稲作で困難に当たることといえば日照不足に台風や水害など「自然の恵み」との裏腹にある人智を超えるもので今となればまぁ稀なケースかも知れません。そして自然相手の仕事ですからその辺りのリスクは許容しなくてはならないこと。

 

しかし、先日も記しましたが田圃に機械油が流入するなどの件は受け入れる側としては想定していないところでとても気の毒というしか言いようがありません。

加害企業からは許容してくれとは言えないでしょうし被害農家も許容などできようもなく。

一体どうなるのでしょうね。

 

ここでまったく事情も違えば意味もまったく違いますが、歴史上江戸期の稲作で「田圃に油を流す」ことはある手段として行われていました。勿論管理された技術の上での注入で油の種類も鯨油と菜種油が主。

 

その手段とは稲に付く害虫対策です。

それ以前となれば害虫の発生に関しての対応は殆どナシで水害と同様、自然現象の一つとして受け入れるべきものでした。

油膜で水面を覆ったのち稲穂についた虫を落とし油まみれにした虫たちの呼吸を止めてしまうという注油駆除作戦ですね。

最近では貝殻虫対策(水稲ではありません)で機械油を噴霧して油膜で覆ってしまうという防虫対策もありました。

 

ようやくに江戸期になって虫たちの自由にさせることは「私たちの不幸」に繋がる事であって何よりも「食」の供給を確実に断たれるということへの対策に着手したのでした。

「不愉快」どころかその虫の襲来こそが最悪の傷みであってご先祖様が忌避すべき最大のものだったのかと思われます。

 

そしてまたその「虫」の発生について人々は「祟り」的畏怖をもイメージしてその発生に人々の行いの因果を結び付けて「反省」を促す「祭り」を催したという歴史がありました(虫による実害防除と「厄除け」が合流)。

それが「送蝗」ですね。

蝗」は蝗害」なる言葉がありますがウンカやイナゴなどの稲を喰う虫のこと。

 

これが「虫送り」のイベントに繋がっていきます。

それは晩夏の季語にもなっている語ですがこの語は旧き良き時代の農村の「畏怖と慶讃(恵みへの)」、季節の風物詩でもありました。

いつしか農村の主役は交代し(不合理から効率・・・肥料と適切な農薬)その人々安泰の願いの表現は消えていったかと。殆ど安定的な収穫が当然のこととなったからです。

 

小島蕉園の蕉園渉筆の一文にその「送蝗」についての記述がありました。

 

「諸縣送蝗、用鐘鼓、近時少年輩競求大鐘、棚草村少年新造之、大過於他方、里正招而視之、少年誇而曰、諸縣無有焉、里正曰、実然也、如汝愚亦無有焉、奪而不与」

 

「諸(この)縣では蝗を送る(虫送り)に、鐘鼓を用いる、近時、少年の輩は競って大鐘を求む、棚草村の少年新たに之れを造る、大きさは他方より過ぎる、里正(村長)招んで之を視る、少年誇りて曰く、諸縣有ること無し焉、里正曰く、実に然り也、汝如き愚も亦有ること無し焉、奪って与えず」

 

棚草のオッチョコチョイの若者について記したものです。

まぁ、往々にして若気の至りとは大きいもの好き。

「でかい口」もそう。奇をてらった事、言葉でもって衆目を集めることがそう。

 

「戦争して取り返すしかない!」の毎度の放言をする件のお子様議員を思い出しました。

いやはや呆れるばかりでバッジを取り上げるしかありません。それこそ「虫送り」にしないとね。