「落居と比木」地名のストーリー 比木城山

比企の乱で北条時政らに滅亡させられた比企能員他一族を弔うために創建されたお寺について昨日記しました。

 

 源平以来、権力の争奪戦において、敵方の一族を完膚なきまでに殲滅させることこそが、将来の禍根を絶ち、自らの家の安寧を続けるという意味では当然のことでした。

譬え幼き子供であっても命を救えば将来、成長し敵(かたき)となることは必定で「清盛と頼朝」の関係を見ればそれが大いに示唆的な事象であったかと思います。

 

 ということで歴史上鎌倉において比企家は姿を消してしまったわけですね。

 

 さて、以降推測です。といっても私のかなりのこじ付けかも知れませんので聞き流していただいて結構です。

建仁三年(1203)の一族滅亡のその日(比企の乱)と言っても一族の100%皆殺しはあり得ないところでしょう。

吾妻鑑にも死者としてあがらない一族の名もあったようで「全滅」とは到底考えられません。

 

 形勢不利と判れば家の再起のために末子を逃がすことなども負け戦の常套です。または他家に婚姻、養子縁組済で外部に居て事情を知ってから身を隠すこともありえます。 

 

 以前より、当地「波津」のお隣「須々木」から『地代、落居、地頭方』という地名について触れていますが、如何にも鎌倉時代風の古い地名です。古い地名は大切ですね。

ここでも敢えて記しますがキラキラネームの如く、自治体住民の談合で変更するパターンも増えている様ですが、これは「歴史」の変更となってしまいます。名称は絶対に触ってはいけません。古い地名は後世に残すべきです。

 

 さて、「地代と地頭方」については役職名として理解していますが、「落居」については「落人が居る場所」「落ちてきて住まう」程度で今一つ漠然としてピンときません。

勿論その「落人」についてその文献も伝承も地元に残っていませんし、私は聞いたこともありません。

 

 そこで私の推測を記させていただきます。

ちなみに「地頭方」の先の「新庄」などは比較的「新しい」という感じがしますね。

 

 まず、「落居」という地の場所を復習します。

地代川から地頭方に至る場所の海岸線と山間部を「落居」と呼びますが、鎌倉時代は海岸線の150号線やその沿線の平坦地は当然にある訳も無く、江戸安政地震辺りからの隆起によるものでしょう。

 

 よって「街道」も山間部を中心に走っていたはずです。

現在「須々木」から「浜岡」方面へのショートカットに御前崎消防署(直に移転になるそう)の前を通る県道239号が整備されていて至極気軽にそちら方面を通過できますが、田沼時代に相良―横須賀使用されていた街道は落居から台地にあがり現在の150号バイパスをクロスする「落居トンネル」辺りからその台地上を南西方に向かいました。

 

 画像①の落居トンネルをくぐって(その辺りを地元では七曲がりと呼んでいます)台地を南西に進まずに、北西方面に降った場所が「比木」という地になります。

勘のいい方ならおわかりと思いますが、「落居」―「比木」の関連性です。

 

 推測は離散した比企一統の某家は「あの時」鎌倉の屋敷から近隣を流れる「滑川」に船を出し、相模湾へ。

そのまま遠州に流れて「落居」へ辿りつきそのまま鎌倉の様子を窺いながら待機、居住したものと。

勿論一族の居住していた比木が目的でした。縁者を頼るのは常套でしょう。

 

 その後ほとぼりの冷めた頃、あるいは鎌倉の赦しを得たのかも知れません。比木の地に定住し一族とともに暮らしたとの推測です。

恩赦が中央の公認であったならば、仮の居住地「落居」が「地頭方」と「地代(地頭代)」に挟まれて(監視されて)いたという状況も考えられ、中央の命での監視体制の名残であるとも推測できます。

 

 「比企―比木」と一字は違いますが当時の苗字の「同音異字」は無視のレベルと言っても過言はありません。

「勝間田」でお馴染みの「カツマタ」色々、多種の記し方がありますね。

 

 余程の城好きでは無い限り、この比木という地に少なくとも城址が三つあったなどということは知らないことだと思います。私の知り得たのも地元の方のおかげで、波津からもそう遠くないこの辺りが武田軍の迂回路であったことを考えるとわくわくしてきます。

 

 これらは天正以降、武田方の築城術で改修あるいは増築されたものと云われていますが、武田勢の遠州での雲行きが悪くなった頃の高天神城に兵糧を入れるコースが須々木から地代経由、あるいは落居から山越えで比木を通るコースだったと言います。

その本城と言われているのが「比木弾正」が城、比木城です。またこの山は地元では「城山」と呼ばれています。

 

 比木弾正については遠州城飼郡堀之内城主、堀内孫八郎若狭守の母が比木弾正の娘であるとその名が出てくるようです(堀内家系図―静岡古城研究会)。

もともとは平安時代、藤原系の子孫としての寄進状に「比木」の名が見られると(同)。

 

 比木城の場所は標高107mの舌状台地先端部分。

古くから「くようづか」さんと苗字とは別の家号らしき名で呼ばれている家の近く、の「岡村」さんのお宅と茶畑になります。

「おいおい、個人情報!、名前を出すのはマズイでしょ」と言われそうですが、この地域では有名な場所(城山)ですし、付近は岡村姓だらけで特定はすこしばかり難しいと思います。

 

 城の二の曲輪推測地についてそのお宅が家屋を新築する際、発掘調査が行われていますが画像の様な構造物の跡が現われています。

また、周囲には武田時代に創られたであろう薬研堀の跡が複数、台地斜面の竪堀も出てきています。

 

 一の曲輪は一面「ハイ此処でしょ」ととても分かりやすい平坦地かつ一段高い場所にありますが、茶畑を撤去しない限り、地下の構造は分かりませんね。

 竪堀もしっかり確認できるそうですが、私有地であるということと、夏場で樹木が茂りすぎているということから今節の確認は断念いたしました。

 

 そもそも地元に住む方の案内で岡村宅に同行させていただきました。あいにく不在だったことでそそくさと退散したのではありますが、画像⑥の石碑、鎌倉の街角に建っているタイプのものですね、「比企判官能員公」には少々驚きました。

 

 石碑の建てられたのは明治になってからですが、地元の歴史家からは鎌倉比企氏との関連は「誤りであろう」と否定的です。

それは当地の比木が前述の平安期藤原系であるとのことと鎌倉比企が武蔵所領の比企のイメージが強く、そのように解したのでしょうが、私の推測を否定できる事がらではありません。そして建立の経緯も否定できる証拠はありません。あれだけのものを建てるのですから、建てた人には何かの根拠があったとも解すべきでしょう。

 

 頼朝の乳母「比企尼」(夫が早死にしたため)の夫が武蔵の比企(藤原秀郷流)の住で、頼朝の困窮時に支援したことが元で比企は頭角を現したことから「比企」=「武蔵」となったのですが、比企家惣領として家を継いだのは比企尼の甥と言われる、猶子の能員でした。

 

 能員は武蔵国とは関係無さそうですが藤原系であることは同じ、また出身は阿波ともいいますが歴史から抹殺されています。

滅亡した家系でまた、如何にしてさらにこの地「比木」からもその家が消えてしまったのか不明です。

 

 武蔵比企家の流れの人が平安期に当地の比木に土着し、建仁の変(比企の乱)の時、伝手を頼んで落居に逃れたと考えると自分なりのスンナリ感となるのですが・・・。

 

 画像②が比木城一の曲輪(本曲輪)の茶畑。

③からの図面は二の曲輪発掘状況、「古城」より。

赤丸印付近に⑥の石碑が建っています。