六角高頼 <三間社流造>檜皮葺の本殿・・・勝部城

「人の命のはかなき事 よろず無常」については常々思うところ大なる環境にいる身ではありますが、昨日は心底から湧き上がる悲痛と苦しみをしたためられた書面を頂戴しました。

 

私の古くからの友人というか先輩・同僚だった方からの便りでしたがその方の夫が白血病にて亡くなったとの報せでした。

病名の宣告と死の告知、闘病生活そしてその時。

その後も目まぐるしく流れる色々に身を任せるよう過ごして、現在に至っているといいます。

返信の言葉のひとつずつに苦慮しましたが、とにかくも心を折られることなく前を向いて歩きだしてほしいと伝えました。

釈迦の示唆の通りあらためて死はどちらにもあることを知らされました。

 

自身がまずはそこそこ元気に生かされている限り、やはり死と言うものは棚の上に上げっぱなしで身近に思えない私たちがいますからね。

 

さて、以前「浮気」の文字面から面白がってその地「浮気」(ふけ)の浮気城について記しましたがその近くに勝部神社があります(場所はこちら)。本殿は表記の如く<三間社流造>とかいうもので重要文化財に指定されています。

この社殿は明応六年(1497)に佐々木六角高頼の寄進だと言いますから古い。

こちら境内地は元はといえば勝部城の址。

佐々木南北諸士帳の勝部には「勝部多宮」とありました。

元亀元年(1570)信長が本願寺宗徒と対峙したおりに「守山・浮気・勝部の城に奉行を配した」(金森日記抜)といいます。

 

以下城郭大系より。

城は明応-大永年間(1492-1528)にかけて、合戦の止むときの無い時代に永原筑前守重頼が当城を築き、永原佐馬允・同加賀守らが在城したということが「四目録」に記されているが、一方「勝部神社灯籠寄進状」には寄進人として建長四年(1252)の銘で、勝部刑部尉物部重文・勝部三郎・大友国光などの名がみえることから、重頼以前に勝部氏の居住があったことがわかる。

しかし、灯籠は文化の頃はまだ存在しなかったことから、銘文の写しがあるだけのため、若干の問題を残している。

さらに「近江輿地志略」には、古城跡として勝部右近介在住と記されてもいる。そして、信長上洛後は稲葉伊予守・佐久間信盛が在城したと伝えられる。