3×3 阿弥陀仏は江戸期 三六の確信 九品仏浄真寺 

タンカー被弾事件に関して総理の今回のイラン訪問には世界の評価ときたら辛らつです。

「役立たず」に「外交初心者」の語が飛び交っていました。

 

結局はご当人の自己満足と勝手な名誉欲レベル(オレがアメリカとイランの仲介をしてやるぜ・・・)だったということのようですが、その批判的評価からすれば「立場をわきまえずにわざわざ火に油を注ぎに行った」というところでしょう。

中東の緊迫感を一層アップさせてしまったということは違いないところで、もしもこれから派手な立ち回りに発展し世界に重大な危機をもたらすようなことがあったとしたら世界の笑いのタネになったどころでは済まされませんね。

 

世界の誰が見てもアベ氏はトランプの飼い犬にしか見えないでしょう。

実はトランプの強行外交のきっかけといえば対日本との成果がベースにあるのではないでしょうか。

イージスアショアにしろF35大量導入の約束にしろ「イラネ~」ときっぱり断れなかった咎は絶大です。

これからドンドンと無理難題を飲まされるかも知れません。

どちらの国でもその手の強圧によってなびかせることが「できる」という大成功のイメージを醸成させてしまいました。

 

その親米第一の筆頭の人物がイランとの折衝に来たとしても、「信じられない」というのは当然の事。

アベ氏が何を手土産に持っていったのか知りませんが、もしあの被弾事件がイランの仕業としたならば結構な土産を頂いて帰ってきたということでしょう。

 

「どっちがやった」の下手人探しの相手中傷合戦はもう結構。

今回の件の火消はどちらの意見にも尻尾を振らない機関(国連)が本腰を入れてあたらなくてはなりません。

しかしまぁその当事者にあのトランプがいるのではね・・・。

もはや彼は紛争のデパートと化していますが自浄作用はないに等しいのでしょうか。

 

元はと言えば選挙を控えて自己への投票を増やす手段としてイランを敵として祭り上げたとしか思い当たるフシがありませんので。

先日日本に遊びに来た際、トランプは「イランとの交渉をたのむ」と言いのこしての帰国でしたがスグにイランに対して追加制裁を発表したことは記憶に新しいものがあります。

アレでは中東に「何しに行ったの」と言われるよう仕向けているのと同じ。

二枚舌(信用のならない)というのは誰が見ても(トランプ信奉者以外)変わらないところ。

 

まぁ総理殿は「火中のクリ」を拾いに行ったということですが、本人の大ヤケドで済まなくなるおそれもでてきました。

何事もお調子にのるとロクなことがありません。

 

さて、世田谷の九品寺の続き。

通称九品寺、「浄真寺」には浄瑠璃寺の九品仏と同様九体の阿弥陀如来坐像が鎮座しています。尚この「九品寺」ですが正式名称ではありませんので世にたくさんある「九品寺」名称でググってもヒットしません。「九品仏浄真寺」ということになります。

 

阿弥陀仏像の製作年代は江戸期(1600年代後半)になりますので、浄瑠璃寺の渋好みの感覚とは少々異にします。

ただしコレだけの金ピカで大きい阿弥陀さんが勢ぞろいしているのは見事です。またこちらも修復期間に入っていて完全に九体が勢ぞろいしているワケではありません。順繰りに席を空けています。

 

こちらのお寺のウリは何と言ってもその9体が上品・中品・下品のそれぞれのお堂に3体ずつ分けて安置されているところ。

そこも浄瑠璃寺のカタチ、九体阿弥陀堂に勢ぞろいの様子とは違っています。

 

こちらのお寺のポリシーなのでしょうか「36」という数字の語呂合わせにこだわっているようです。

その根拠が阿弥陀仏誓願の48願で、その十八番目~ワープロで「おはこ」と入力して「十八番」と出るようにその18番目がいわゆる弥陀の主眼で「弥陀の十八願」です。

 

それこそが阿弥陀の主たる誓願であってあとの47はその枝葉のようなものであるともいいますが、やはり当流でもそちら18番目があるからこその往生極楽であって凡夫の信心の基盤となっています。

 

そこのところ経典から引っ張れば 

 

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念

        若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 

の一節でそのすべての文字を数えれば4×9で36文字。

 

一言で記せば「私の名を10回でも唱えた(称名)者がお浄土に行けなかったとしたら仏にならない」であって、これが「信心をもって全てのものが平等にすくわれる」の原点になっています。

そこから御開祖が当流ならではの「悪人正機」「他力本願」へと突き詰めていったのです。

 

その36があってこその浄土往生へのチケットを「私でも」ゲットできる裏打ちなのでした。

どちらかブログにて48という数字の最近の耳慣れについて記しましたがこちらではその18番目の文字数、36に着眼したということでしょうか。

 

36の言葉遊びは3×6で18願となることもあるのでしょうが、境内敷地面積が36000坪だとか上・中・下品三仏堂のそれぞれの丸柱が36本、本堂のケヤキの柱が36本、三仏堂と本堂との距離36間であるなど示してその数字が「往生にちなんだ数字である」と境内掲示板に記されていました。

 

そういった計算が実際にあったのか偶然なのかは知りませんが、阿弥陀仏のはたらきは「平等世一切」ですので念仏の回数と同様、数や生き方に区切りを求めないことは確かなことです。