見るだけでなく 聞いて感じて 口で唱える 九品仏

それにしても不思議。

中東ホルムズ海峡のタンカー被弾事件の下手人のことです。

ここで三文推理小説の如く私がひらめいたのは・・・

だれがやったかわからないイタズラの犯人捜しなど小学生時代によくあったことを思い出します。

 

そんな時、先生による事情聴取が始まるワケですが、そんな時大抵一番最初に「〇〇クンが怪しい」「〇〇クンに違いない」など各証拠らしき事象を持ち出して論じられることがありました。

余談ですがその論の指摘はまず私のことであって、そのまま息子がそれを受け継いで悪役になっていたことは言うまでもないこと。

まぁ図星のこともありましたが大抵が濡れ衣ですね。

 

ということであの件、まずは誰が見てもその下手人をイメージするとイランであると思うことに相違ないところでしょう。

ソーリ殿がかの国にいる時に日本に関わる船舶が攻撃を受けるというタイミングからしてその国の真意の表示であると推察するものですね。

 

しかしそのような見え見えのことを国主導でやりますかね。

そもそもあのタンカーの船籍は日本ではありませんでした。

日の丸を掲げての航行でなくそれが「日本」を認識しての攻撃ではないかと思われます。一見しただけで日本船であることはわからなかったはずです。

 

そこで小学校の犯人捜しに戻りますが、そんな時最初に「〇〇に違いない」と確定的なことを言い放った子が実は「犯人」だったなどということがしばしばありますね。

今回の中東の件、トランプが「イランがやった」と断定的な事を発していましたが、そうなるとアメリカの自作自演か・・・などと考えるのはハリウッド映画の見過ぎでしょうか・・・。

 

こいつらの仕業だ・・・というビデオ(タンカーに横づけしている不審な船の様子)がアメリカ側から提供されていましたが、「イランである」の証拠にはなく、そもそもあのビデオと推論の通りであるのでしたらいくら何でも間抜けすぎの感。

タンカー乗務員の目撃談として攻撃は飛翔体との証言がありましたし・・・。

 

私がこれまで観た映画の中から想うに「CIAが仕組んだ」と推すことはまったく荒唐無稽であるとは言い難いものがありますからね。事実は小説よりも奇なり。コレ私の観想。

 

さて、時にタイミングに恵まれれば「日没夕日と西方阿弥陀極楽浄土の観想メディテーション」を与えられた機縁として殊に念入りに足を止めるなどして味わうことにしています。

と言っても30秒から1分程度で深い鼻呼吸と「おかげさま」の意識を強く思いつつの(「無」の意識ではありません)「なむあみだぶつ」です。

 

しかしながら真宗の本意からすれば、「念仏」の解釈は「称名念仏」ですので、この「観想念仏」的なものは初期浄土教に於いては正論ではありますが真宗流の「念仏」からすれば、ややもすれば宗旨逸脱感、「ホントは違うのだろうな」の疑念も惹起しがち。

しかしこれはケネス・タナカ⽒(武蔵野⼤学)の推奨する「マインドフルネスー念仏メディテーション」に準ずるもので、心の安定と精神の安息に最良の作法であると心得るようになりました。

氏の講演(岡崎教区御遠忌通信)を聞いてから拙寺でも取り入れて皆さんと実践した事もありました。

 

さて、京都の浄瑠璃寺の九体阿弥陀と「九品」について記しましたが、神奈川東京圏の方からすればその「九品」といえば世田谷は環状八号線、第三京浜入出路の近く奥沢の通称「九品寺」です。学生時代はその近くを東急大井町線沿線(九品仏駅)の住宅地の中にあるお寺ですが、寺域はかなりの広さがあって付近散策にはうってつけの都会の異空間の空気を味わうことができます。

正式名称は「九品山唯在念佛院浄真寺」で浄土宗のお寺。

字号から推察すれば阿弥陀仏のご本尊は確定的と思しきも本堂に鎮座する本尊は釈迦如来という違和感は私だけでしょうか。

 

そちらの総門に掛かる扁額が「般舟場」~はんじゅじょう。

すでにわたしども真宗の生活の中でそれを耳にすることはありませんが「般舟三昧」なる浄土系ならではの語があります。

一言で言ってそれは念仏を「行」と捉えて阿弥陀仏を「観想」しようとするもので、京都永観堂(禅林寺)、みかえり阿弥陀の「永観、遅し」を思い出します。

 

当流真宗の御開祖親鸞さんの若き時代、浄土の教えと実践といえばその「般舟三昧」が幅を利かせていたと思われます。

親鸞さんは以降、阿弥陀仏「観想」の「場」の思想から聞法道場としての「場」へ、そして「称名念仏」という行動で阿弥陀仏の捉え方を変えていったということですね。

 

しかしながら目で見て感じること耳で聞くこと口で発声することについては日常生活においてどれも大切なことでそれらすべてが実践できたとすれば健全(肉体も精神も)そのものですから、現代に於いてはその全部が大切なことであると言われています。

 

ただし「行」(回数多寡の称名含む)としてではなく一向専念無量寿仏の「唯念」(「信」)であることが肝要ということです。