親鸞は弟子一人も・・・五輪塔三基 岩船寺の逸品 

2040年の未来のお話など、私の知った事ではありませんが(浄土で胡坐をかいている可能性大)、このほど出された「2040年の日本の姿」なる表題の数字の羅列を見れば「ああ、これが日本の未来ということで・・・」と妙に納得させられました。

 

それが東京・大阪など首都圏での高齢世帯の45%以上が「独居」(全国平均は40%)というもの。

世帯数でいえば2015年で全国5333万から2040年で5075万に減少するというのが確実のようで。

 

高齢者(65歳~)世帯比率は全国で36.0%(2015年)→44.2%(2040)。

突出しているのが秋田県で46.0%→57.1%ですからね。

それからあと20年も経てば秋田県には人が居なくなるような勢いです(→人口減少)。

まぁスグには人はいなくなりませんが少子化の今、だれがそのまたぞろ増えて年金の支出と医療費が嵩んでくる高齢者を看取っていくというのでしょうか。

 

もっとも日本の全体像がそういった傾向ですのでいずれにせよこのままでは100年も経てば日本は消滅するような勢いですね。

それを放置し続け、これからもその対応らしき対応の欠落した政治の責任というものがありますが。

みんな「今」の安定のみを貪り、未来というものに「知ったことではない」のスタンスであることは私と同じなのでしょう。

何を騒いだとしても始まりません。

 

昨晩は統一地方選挙での勝利者の「バンザーイ」の声がテレビから響き渡っていましたがより一層毎度の空しくなる数字を感じました。

 

さて、本日も岩船寺。

そのお寺には五輪塔の数点が見えます。

まず①②③(同じもの)は門を潜ってスグ左側に目をやればその存在をアピールするが如く鎮座しています。

こちらは重要文化財指定になっています。

データとしては高さ235㎝花崗岩、鎌倉末期のものといいます。

もともとはこちらではなく、近くの石堂なる地の山中にあったものを昭和13年に移したとのこと。

川勝氏の評価によればやはり「整美」の表現をしていましたが、

複弁の反花座を設える形式は大和文化圏の地方色であるといいます。

また水輪が微妙な壺型、火輪の軒反りの堅さを指摘しています。

 

三重塔近くの④⑤⑥も鎌倉時代末期のものでまさに正純なスタイルで文句なし。こちらは重文指定とはなっていないようですが、上記の五輪塔との大差を感じません。

 

最後の⑦はその2点よりも時代がかなり新しいものでしょう。

形状の違いが明らかです。

こちらは先日記した「智泉」の供養塔ですね。

智泉は空海の甥っ子といわれその十大弟子の一人です。

天長ニ年二月十四日(825)の没年が地輪に記されていますが五輪塔の製作年代ではありません。

 

ちなみに「十大弟子」といえば「釈迦」を思い出しますがそれに準えてかなり後になってからその語を使用しているようで、空海の生存中にはその感覚は無かったでしょう。

 

また私ども開祖親鸞さんについてその件を記せばご存知「親鸞弟子一人も持たず候」(歎異抄第六)ですね。

 

まぁ「弟子」がたくさん居るというイメージが「凄い!!」と結びつくのは結構下世話ではあります。

ある道のお師匠さんが「私の弟子・・・」なんぞの言葉を吐いたりすると「ふ~ん」などと「ひょっとしてそれっきりの人なのかな・・・」などと勝手に考えてしまいます。

それもまたイケないことなのでしょうね。

まぁその根拠となる歎異抄の件を記します。

 

歎異抄第六

「専修念仏のともがらの、わが弟子人の弟子という相論の候ふらんこと(「自分の弟子です」、「他の人の弟子です」などいう争い)、もってのほかの子細なり。

 

親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ。

 

そのゆゑは、わがはからひにてひとに念仏を申させ候はばこそ

弟子にても候はめ。

弥陀の御もよほしにあずかって念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。

 

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。

如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。

かへすがへすもあるべからざることなり。

自然(じねん)のことわりにあいかなはば仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。」

 

中間部分の口語訳

「~縁があれば連れ伴い、離れねばならない縁にあえば離れていく。ところが「師に背き他の人に従って念仏したとしたら浄土に往生することはできない」などいうこと、そのようなことは言えるワケもなく・・・。

阿弥陀さんから賜った信心を、(「弟子だった」と言って)あたかも自分が与えたもののように取り返そうとでもいうつもりなの?

そのようなことは絶対にあってはならないことです~」

 

ここのところは大事なところで、お寺として檀信徒がその寺を出て他の寺に入るようなシチュエーションが最近は特にあるわけですが、そんな時住職があーでもないこーでもないと(気持ちは大いにわかります)とあたかもゴネる様相を呈するのは当流では「もってのほか」なのですね。

 

「自然法爾」の通り「ご自由にどうぞ」がカッコイイ。

半ば「勝手にしやがれ」風に取られるかも知れませんが。

人口減少に歯止めが掛けられないのですからただそれを受け入れるのみ。抗うことなんか出来やしません。

「おまかせ」(「南無」であり「帰命」)それに尽きますね。

世の中も投げやりでも何でもない、今や「それしかない」というレベルまできているのでは・・・