「普賢の徳に遵うなり」我が身の事と 岩船寺宝塔

87歳のお爺さんの件(池袋の車両暴走事件)、またも起こったかという思いとその結末に何ともやるせない思いでいっぱいになります。

忘れたころに起こる「業務上過失致死」事件。いわゆる「ブレーキとアクセルを間違えた」というものでしょう。

それにしてもあの車種か・・・ともため息。

 

もう一つ最近よくある「逆走」の事案と同様「うっかり」と「私は大丈夫」が起因することであっても機械の構造上の問題として考えなくてはならないということを拙ブログにても何度か記していました。

 

それを人間のそもそもの「判断ミス」によるもので「どうにもならない」(関与できない)と断言するのであるならば自動車メーカーはそれによる死傷者をせめて救済するための基金等の創設を思案していただきたいものです。

そもそも「安全」なシステムなのか・・・です。

被害者にとってはそれは「走る殺人機械」と同然です。

そのゴーカート同様(オートマチック車)のマシンを売り、稼ぎまくっているのですからね。

 

私もハンドルを握る身として87歳の御年までそれが続けられること自体が奇特な事とは思いますがその件「お前の事でもあるぞ・・・」と自問自答しています。

被害者の立場になった時は・・・言葉もありません。

 

さて、表記「普賢の徳」のフレーズは拙寺の四十九日法要の際の表白の中に差し込んでいます。

 

「仏説無量寿経」の冒頭部分に例によって一同「倶会」の場に菩薩筆頭のベストスリー「普賢菩薩・妙徳菩薩・慈氏菩薩」が記されます。

妙徳菩薩=文殊菩薩 慈氏菩薩=弥勒菩薩(阿逸多菩薩)です。

呼び名が色々あるのは阿弥陀如来と同じですが、経典によって分けて記されているのは紛らわしいものです。

 

ちなみにこちらに普賢菩薩を登場させたのは先日の弥勒の件で「次は・・・」と予測、というか「追い出し」のようなコメントを頂いたこともありました。

 

知らない者には優しくないというのが経典の一方的なところでそんな多様な呼ばれ方のする仏たちをまちまちに記すことなどお構いなし。

要は知らない者がいけない。

だから「知るべし」なのですが。

 

その「普賢の徳に遵うなり」のあとの語が「知るべし」と続きます。

経典では「みな普賢大士の徳に遵へり~」が正しい記述ですが、経典世界に登場している智慧者であるならばともかくも、私の如くの凡夫の身としては「遵うなり」と従順になり尚それを「知る」ことが必要だと念を押しているのです。

 

何を知るべしなのかか・・・その「普賢の徳」とは浄土に往生したものが再びこの世に戻ることを示唆(→和歌の浦)したもので現世で「慈悲行」を実践することです。

 

まずは「私」の本質は慈悲の心に乏しくその独り善がりの心は貧しいものだったと「知らなければ」ならないのですね。

だから菩薩(修行者)になることを勧めているのです。

 

ということで「知ることが何より重要である、仏法を聞くことが何より大切」であることから当流御堂を「聞法道場」というわけです。

そしてまたいずれにせよ菩薩三者の基本は「慈悲心」なのでした。「私」を放り投げて他者を慈しむ・・・これが仏教の経典の言わんとするところですね。

 

法律上「知らなかった」は大いに酌量される要件で、他者の生命を奪おうとも故意でなければ「業務上過失」が付きますね。

ところが仏法では「知らない」では済まされないという教えです。それが「スグにでも聞け」、いわゆる「聴聞に励め」いうことですね。

 

岩船寺についてはその近隣の色々について記していましたがあのお寺には普賢菩薩がいらっしゃいました。

お決まりの騎像スタイルで作は智泉大徳との伝。

余計な事ですが「智慧の泉」の名を連想します。

 

一木造彩色の合掌像は平安期のもの。勿論重要文化財に指定されています(画像はパンフレットより)。

 

元は三重塔に納められていたといいます。 

その三重塔はこちらのお寺の視覚的圧巻。

嘉吉二年(1442)の銘があるとのことですが、伝承としては任明天皇が834~847の間に智泉大徳の死に際しその遺徳を偲んでの宝塔建立だったと。

時間差がありますかられをそのまま受け取れば再建ということですね。

いずれにせよ威風堂々見事な重文指定遺物です。

また上記最後の画像、三重塔の各隅にちゃっかりとかわいく顔を覗かせているのが「隅鬼」(天邪鬼)です。

 

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コメント: 2
  • #1

    がつお (土曜日, 20 4月 2019 13:55)

    これはコメントをしないといけないでしょうね。
    と言いつつも私の仏教知識は西遊記が基で少し興味をもって岩波文庫の法華経を読んだ程度のものです。
    ただ、我が家には母の養母が残したとされている浄土三部妙典があって写本なのでしょうが巻末に
    皇都 板元 北川文淵堂
    寛政三年亥三月御免
    寛政五年丑八月出来
    天保五年午八月再板
    とあって、代々伝わっているものなのかと思いこれだけは残してあります。
    でも、漢字のみの経典なので読み方が全くわかりません。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 20 4月 2019 20:26)

    ありがとうございます。
    私の知っている限りで浄土三部経のある在家のお宅と言えば旧家庄屋さん系で
    お金持ち。大きなお内仏が鎮座しているようなお宅です。
    現状、お寺以外で浄土三部経どころか阿弥陀経すら見ることは難しくなったご時節。
    以前は法事となればそれらが出番となって一つ一つ拝読されていたのでしょうね。
    時間のゆっくりとした流れと人の仏に向き合う姿勢の古き良きところがうかがえます。
    機会があれば三部経の方も紐解いてその奥深さに触れてみるのもいかがでしょうか。
    ただし私はそれを気安く推奨するところにまで至っていませんので大変おこがましいところでもあります。