「唐臼の壺」 阿弥陀さんと地蔵一石の摩崖仏コミ

朝昼夜の寒暖差がかなりあります。

昨日は早朝より車にて移動していました。

天気図を見ただけで日本全国どこでも晴れは間違いないと冬系ジャケット無しのシャツ+スウエットだけで飛び出していました。

どうせ「暖かくなる」との判断でしたが途中気温は4℃~3℃にまで落ち込んで車外に出る際、息子が小学生の頃に使っていたグラウンドコートをハッチバックのケースから引っ張り出し、手ぬぐいを首に撒くなどして対応しました。

 

朝方はその寒さで閉口しましたが、徐々に気温は上がって昼過ぎには20℃超え。私はこの辺りにはない比較的ハードな山城に取り付いていましたのでかなりそのコートが邪魔になりました。

 

以前、春の八王子城登城の件を記しましたが、登りだせばジャンバー、ジャケットの類は不要になり、暖かくなることはわかっているので少々の寒さを感じたとしても持参するまでもないというのが考えでしたが、3℃4℃なる気温となれば、いくらなんでも「聞いてないよ」でした。

 

八王子城は上りと下りは同じコースがわかっていますので要らなくなれば気安く立ち木の枝に掛けて帰りに回収ができますが、昨日の山は下山コースを変えますのでその作戦は取れません。

よって「あつい!!→コートを脱ぐ→それを持つ左手が塞がれる→右手はカメラを意識する」で極めて危険な体勢。

今の山道は枯葉がビッシリ堆積、朝方ともなればズルズルの滑りやすさですからね。特に昨日は霜でうっすらと白くなっている場所もありました。

私の膝の調子ですが時折はビリっと何かが神経に触れるという不快のシーンはありましたが現状「動いていればヨシ」は今のところ確認できました。

 

さて、わらい仏・ねむり仏から浄瑠璃寺方向への小径を歩いていると左手に「唐臼の壺」なる円形の穴の開いた石が出てきます。

「何コレ・・・」と思いながら右に顔を向ければ阿弥陀さんの摩崖仏がこちらを見ています。

その「穴」は無視してそちらの方に行くのは当然の事です。

どうやらその摩崖仏の通称も「唐臼の壺摩崖仏」のようでした。穴あき石の近くということでしょう。

 

摩崖仏に特筆すべき点が二点あります。

阿弥陀さんの右、こちらから見て左側の面にお地蔵さんが彫られています。

また、阿弥陀さんの左脇にお灯明用の火袋が彫られているなど石工の遊び心を思いました。

 

「唐臼の壺」は鳥の方「カラス」を連想しますがそれではありません。

あの穴の開いた石についてその名を名付ける時、誰かが「唐臼に似ている」を主張しそれが固定していったというところでしょう。

ということでその変な名称が阿弥陀+地蔵の摩崖仏に伝わって皆がそれをまた採用、何となく言い伝えてきたのでしょう(場所はこちら)。

 

あの存在についてこじつければ、この摩崖仏前での寄り合い縁日の開催日の日没後等にあかりを灯すための支柱のようなものかと。

 

全国的に石仏としてよくお見受けする阿弥陀と地蔵の両主役が巨石の表とサイド側に記されているのですが、同じ面ではなく地蔵が崖側に隠れているというのがミソ。

地蔵・・・冥府・地獄のイメージが強いものがありますのでそれが意識的に表されれば阿弥陀の西方極楽浄土とは表裏の関係になるかも知れません(のちに「双仏」で思考)。

 

最後の画像は「東小田原随願寺跡でしょう。

画像①の右の道を進むと右手に現れます。グーグルマップにそうありました。

 

こちら「当尾」は古くから「小田原」と呼ばれる地ですね。

そういう意味でも(私は小田原生まれで小田原生活が長いということもあって)この地区に、より親しみを覚えるわけです。

 

川勝政太郎氏の記述より

「巨石の正面に舟形のほりしずめを作り、像高60㎝の定印の弥陀坐像を刻み、向かって左側面にも舟形の中に錫杖を持つ地蔵立像をそれぞれ半肉彫する。顔も衣文もくせがあって鎌倉時代のものに比べると、よほどまずくなっている。弥陀像の向かって左に『康永二年1343癸未三月二十四日願主▢性 地蔵像向かって右に康永二年癸未三月二十四日願主勝珍 灯籠線刻と火袋火口の例は極めて珍しい』」