蕉園から贈られた軸の修復 「令」使用例と色々

ちょうど一カ月ほど前に3点出していた蕉園の御軸の補修が完成しお寺に戻っていましたが、2点はアップ済み。

よってその3つ目を。

 

この軸は発見当初の酷い有様について画像アップしていますのでそちらとの比較をしてみてください。

その完成具合を見てプロの表具師(宇野氏)の仕事に感服したわけですがこのお軸は4月7日(日)の拙寺春の法要「寺テラス」1階にて展示いたします。

 

こちらの御軸は蕉園が自ら仕立てて当時の拙寺住職、九代目祐厳(ゆうごん)に贈ったものだと思います。その息子祐賢に男の子が生まれたことを慶んで讃辞を贈ったのでした。

内容は蕉園渉筆にもあった大澤寺の記述と同様の事を記していますのでまずはそちらを見ていただければわかりやすいかと。

 

善政家といわれる小島蕉園ですが、こういった文書というものはかなりの勉学を重ねていなくてはまずは書けませんし読み切れません。

当時の知識はまずは本を手に入れあるいは借りて、書写することから始めて自分のものとしますが、どれだけの努力をして時間をかけたのか想像するだけで「凄い」を思います。

 

そして何よりそれらの教養というものは100%中国系の書物(四書五経・・・)をベースにしています。

日本の文化というものはたとえ国文学なる範疇といえども大陸からの影響を受けていないものはまず見つける事はできません。まぁ漢字文化をやめるというのなら別ですがね。

 

さて、このお軸があれだけの虫食いボロボロがここまで修復できて内容がわかるというのはそもそもかの虫たちは墨書の部分を避けて字間ばかりを食べたのだという結論を得ました。

タイミングと偶然もありましょうが、墨の部分は美味しくなかったのかもしれませんね。

 

内容は

「 祐師住院僧也父祖無男皆以義子嗣焉至師今茲甲申秋初三

有懸弧之慶令余名之夫人之所貴者男子也故栄啓期之三楽男居其一焉維摩詰云慈心為女善以成男蓋師父祖深於慈心而師兼善心乎嚮挙二如而今得美男子可謂慶矣非唯師為慶諸、檀越相集以為慶文言云積善之家必有餘慶、大雅云則篤其慶請命之以慶矣師曰好矣乃書贈之

 

   祐公令子名説          秋上脱畳字

                                                   文政七年七月     蕉園藤彜   」

 

まず「祐師」とは拙寺九代目祐厳のこと。

「祐」は当家の通り名ですが、蕉園と昵懇にお付き合いしていたのは祐厳ですし内容もその旨記されています。

 

叔父はそもそも昔から「二文字より一文字の言い方がカッコイイ、オシャレ」の風潮があったと言います・・・。

 

「祖父以来男の子が生まれないから養子を取っている」ということは蕉園渉筆と同様のこと。

そのあと「今茲甲申秋初」とありますが文末の「秋上脱畳字」に関わる箇所です。

この辺りの解読は叔父ならでは。私だけでしたらまったく意味不明です。

 

これは「秋の文字の上(縦書き)に脱字があってそれが畳文字であるよ」という訂正箇所なのです。

 

あとから見廻してみて蕉園は脱字を発見。

それを記して読む際に文字を入れて欲しいということを記しています。

畳文字とは畳語(じょうご)とも言って同じ字の繰り返しのこと。

この文では「秋の上」は「申」ですので「申申」となるということです。

文書でいえば「甲申申秋」。ついうっかり「申」を一つ入れ忘れたのでしょうね。

意味は「甲申」きのえさるの年、「申秋」・・・「申月」すなわち初秋ということです。申月(さるのつき)は七月。

文末の日付の通り「文政七年の七月」の「三日」(初三)を言っています。ちなみに「七月」=初秋。

 

以下男の子の誕生に恵まれなかった拙寺に慶事が起こったことを祝辞として贈ったことがわかります。

「懸弧之慶」が「有」ったとは古来より「家」の存続を主眼とした思想ですが男の子が生まれると門前に弓を掛けた(邪気をはらう)故事から「懸弧之慶」=「男子の誕生の慶事」です。

 

その次に1つ目の「令」。

令余名」この場合の「名」は動詞で「名づける」。

「私はその名をつけるよう言われた」です。

今でいう命令の令(せしむ)を示唆するような表現ですが、一介の坊さん風情が代官に命令することはあり得ませんし、「命名してね」の願意に軽々しく受けることもおこがましいことですので蕉園は先方から「強く依頼された」ことをこの字で表現したのでしょうね。

 

以下は「女子より男子」という記述です。

今それを言えば「頭がおかしい」と言われかねませんがその思考はつい最近まで日本の文化に脈々と流れていました。

 

「栄啓期之三楽」の「栄啓期」は人名で中国周の人。

列子の第一天瑞編に栄啓期はこの世の「楽」は3つあるとして

①人として生をうける②男として生まれる③九十歳まで生きると説いたと言います。「人・男・寿」の三楽です。

 

「維摩詰」とは先日記した文殊菩薩の登場する経典のこと。

文殊菩薩の「化身」を示唆しているのが次の「慈心為女善以成男」。

『慈しみの心があれば女を「善をなす」をもって男と成る』。

蕉園が「慈心」の字を使用し「維摩」を持ち出して「化身」をも連想させることは間違いなく自らも「智慧の文殊菩薩」の如くのイメージを日々の生活の中に入れていたことがわかります。仁政・徳政の根幹思想が見えてきます。

 

その蕉園の拙寺住職への絶大なる誉め言葉が「積善之家必有餘慶」でした。

ご先祖がいただいた評価に恥じぬよう慈心と智慧を心がけなくては。

 

最後の「祐公令子名説」。祐公は冒頭の通り、祐厳。

「令子」は令嬢・令息で相手さんの子供への敬語です。

ワルイ意味ではありません。

 

尚、蕉園渉筆の拙寺の記述に生まれた男の子の名に皇太子と同じ名を命名してしまった事を「うっかり」恥ずかしいとありましたが、「令」の字の使用例として皇太子ほか天皇以外の「命令書」を「令旨」(りようじ)と言いました。