主君殺しの大悪人はでっちあげ 松永久秀 多聞城

奈良南都総墓所西方寺についてここのところ何度か記してきました。「草鞋野」(わらじの)という地に移転してきたのは正親町天皇の時代、戦国期でも一番に人気のある時代です(在位1557~1586)。

寺はもと東大寺の末寺であったといい東大寺近くの多聞山にあったとこて、松永久秀がここに城を築くことになったからの移転でした。

この移転の際に尽力したのが東大寺勧進所の祐全上人という人だったことから、西方寺中興の祖と言われてその尊像が寺に安置されています。

その案内板が最後の画像ですがそちらにも多聞城の名があります。

 

 

さて、昨日のテレビ小僧は「知恵泉」がメイン。

松永弾正久秀でした。

内容はこれまでの無茶苦茶キャラは修正されて歴史は随分に「変わっている」ことを伝えていましたね。

「史上最も有名なヒール、戦国時代の極悪武将」という烙印はでっちあげだったという構成でした。

いわゆる「戦国三梟雄」などというくくりがあってよく北条早雲とともにかねてから名を連ねていたのが松永久秀でした。

 

北条早雲は伊勢新九郎、伊勢宗瑞からの変名で元は足利家執事の名門家の出であったことは周知、今やそれが本流。

早々にその梟雄組からは離脱していました。

そして今、最近の研究から松永久秀は三好長慶の「有能な忠臣」(能吏)であって久秀の三大悪事といわれる①主君殺し②将軍殺し③東大寺大仏殿焼き討ちはすべてフェイクであると。

例の信貴山城平蜘蛛の件も「無かった」説が有力であるとは聞き及んでいましたが・・・

ということで私が以前記した松永久秀のイメージは修正する必要がありますね。

 

番組では松永のヒール度がアップしてきたのは江戸時代の演芸、講談の壮大脚色からと。

というのは大名として名跡が残っていなかったことから好き勝手な演出が可能だったということ。

歌舞伎などでも見え見えである事件を劇化していることは推測できることはたくさんあります。しかし登場人物の名前は微妙に変えて気を使っているところは見受けられますね。

そういったところ、憚る必要がなかったこと(系統は不在)が「悪」をエスカレートさせたのでしょう。

 

そして戦国期の一級資料として誰もが手にするルイス・フロイスの「日本史」記述では、松永久秀については辛口で低評価。

それは松永がちゃきちゃきの法華宗(墓)で尚キリシタンを追放した腹いせというか感情が入っていたと見るのがその解釈。