田沼海道 島田―金谷経由 避板法

昨日と同様先日の史跡研究会にて撮影させていただいた史料のもう一つが田沼街道(田沼海道)についての記述でした。

この田沼海道についてはこちら相良にもここやかしこにその掲示があることはもちろんのこと藤枝あたりでもその名を見ます。ただし漠然として連続的なその道のイメージはなかなか掴みにくいものがあります。私は特に大井川以東側の地域、藤枝辺りは特に疎くてなかなかピンときません。

 

藤枝相良間の途といえば子供の頃微かに記憶に残る駿遠線かバスで往来した国道150号線に近いものがありますが田沼時代の道は島田宿-金谷宿経由です。

元々は初倉の「色尾超」(こちらあたり)への大井川の浅瀬の筋の通行往来があったようです。現在の新幹線の通過ラインと考えると現在の150号線とは大分上流となります。

初倉から小山城の下に出ようという街道も当然に存在したはずですが、家康が小山城を攻めるに難儀したようにかなりの湿地帯の通過となったのかもしれません。

 

 

「駿州藤枝宿ゟ遠州相良江通候道之儀は往古遠州初倉村辺ゟ大井川下瀬ニ而色尾越と申渡之道筋有之由申伝其後も近村百姓共自由道ニ而御座候処安永九年四月十三日田沼玄蕃頭様御役中初而相良御城之節嶋田宿御通行大井川往還通本道ニ而御渡川金谷宿原通ゟ被為入同廿三日大井川下大口村前二而御渡川田沼海道より御帰府其節人馬継立川越等之儀は御領分ニ而相勤候哉島田金谷両宿ゟは一円不差構趣ニ御座候何れ相良御在城ニ候は藤枝宿ゟ之順路ニ付御家中方は右道筋御通行儀追々御威光ニ而相発ケ田沼海道共相良海道共申伝候哉ニ奉存候聢と取究候儀は一向無御座候且又以前ゟ外往来右之通行致候儀は猶更承不及候尤天明五巳年四月四日午刻ゟ大井川川留メ同八日御状箱越有之候所御太老井伊掃部頭様御若殿玄蕃頭様御下り同三日ゟ日坂宿ニ御逗留七日金谷宿原通植松村御泊り下川ニ而御渡川田沼海道御通行其節御支配ゟ人馬差出候様御沙汰も御座候得共人馬并川越人足共嶋田宿ゟは不差出候伊東播磨守様織田出雲守様右同断川支ニ而金谷宿御滞留ニ御座候処川口明往還御渡川之上は玄蕃頭様ゟも東宿ニ而は御先ニ被為成候由承伝申候右之外は往古ゟ只今ニ至迄諸御往来共田沼海道御通行之儀決而承不及候御尋ニ付承伝之儀乍恐以書付奉申上候以上」

 

「色尾」という字面について叔父が調べたそう。

元は「井籠」で、「古い時代のキラキラネームだろう・・・」と。

ちなみに何度もブログにて触れていますが、あてる字はどうでもイイ時代。

街中では「田沼街道」ですが、東海道に準ずるということで駿遠三河の東西に通じる道は「海道」にする場合が多いですね。

先日も記しましたが今川義元を「海道一の弓取り」と「街道」の方と違えました。

字面はどうでもよくて音が通じればイイのではありますが、その辺りはほとんどそれを記す人のセンスの問題でもあります。

 

たとえば上記「しまだ」の地名につき、嶋田にしたり島田にしたり・・・

しかし文書を記すに「避板法」というものがあって同じ字面や表現を繰り返さないといったちょっとしたシャレ心があったことも確かです。

まぁ私はそんなことすべてテキトーですが。

また①の最後の行中の「役中初而相良」の下に字を消した箇所はいわゆる「見せ消し」ですね。