安倍用無し 城の存在は誰も価値を見出さなかった

どちらにおいてもそうでしょうが静岡にも難読地名がたくさんありますね。

その中でこれは・・・と思うのがやはり「建穂」です。

「たきょう」と読みますがその地の「服織」(はとり)などもちょっと無理・・・の部類、その地には「羽鳥」の字面も混在しているところも・・・。

その裏山が久住で安倍城の向こう側が「慈悲尾(しいのお)」でこちらも読みづらい。

またその近くに「千代」なる地名があって「これならカンタン」と思いきや「せんだい」と読みますからね。まったく地名は一筋縄では行きませんね。

 

さて、昨日の安倍城の続き。

山頂(主郭)までは「のんびり」往復して2時間といったところですが運動不足の体にはハードな山登りになります。

城郭大系にある図の通りに本城手前、駿府城背後の賎機山方向から安部川超えで見たダブルトップの左、低い方が久住砦。

ちなみに「賎機山」(しずはたやま)も地元静岡人でなくては読みにくい地名ですね。

 

私よりもかなり年配の方が「お先に~♪」という具合に追い抜いてまた、引き返してくる姿を見ましたが、まったく恐れ入りますよ。

その方は「週一でこの山を散歩する」という強者でしたが、きっと健康そのものなのでしょうね。

私も「奥の墓道氏」と同様心臓が飛び出しそうな勢い、久し振りに自身心臓の動きというものを体感しました。

 

彼は山を降りた後になって今回の安倍城行脚についての不服を申し立ててきました。

「知っていたら行かなかった。キツイよりも今日は革靴だ」でした。「おかげで枝と岩で傷だらけになった」と。

ただし本丸からの「景色は絶景」のお墨付きはありました。

 

そうは言いながらも彼は私に5分差をつけて安倍城石碑のある本郭址にゴールしていましたが・・・。

あれだけのヘビースモーカーがなぜにして心肺機能がそれほどに強いのか・・・移動といえば自動車に頼ることなく自身の足のみという生活が効いているのでしょう。

 

安倍城は高さと広さだけでなく藁科川と安部川という2本の大河に挟まれた絶妙の立地です。

城郭大系に「本城を核として四方に延びる尾根上に久住、千代、羽鳥、西ケ谷、大代、内牧、水見色の諸塁を附属して」とあります通り、その中部地区山城としての威容は最たるものを推します。

 

ただしそのたくさんの郭というか砦群は登ってみてもまったくもってわからないというのが本音。

あのコースの苦痛というものは登攀路が急ということもありますが、主郭にたどり着くまではただひたすら「森の中」の感があって視覚的に単調なのです。

また久住から本郭方向に向かうに下降する場面があってかなり気が滅入るのは八王子城の如く。

 

尾根づたいにたまに出てくる腰曲輪らしき削平地の崖側に出て土塁だの空堀だの堅堀だのの遺構を「確かめてやろう」といった前向きな気持ちは余程の城好きでなくてはやれないこと。

コースを外れて山を彷徨うはめになりますからね。

それは以前、近江の和田山城で酷い目にあったことが頭から離れませんね。和田山城は安倍城のスケールからしたら1/10くらい。山の中での遺構探しは怖いものがあります。

 

まぁこちらのコースで出会った人たちはほとんどが年配者。

城ではなく純然たるトレッカーばかりですが、この城を熟知するには「週一で1年間」は通わなくてはならないくらいでしょう。

 

静岡市としてもほとんど歴史的価値として放置しているに近いこの山ですが、それだけの砦の名があるのですから、案内板を各所に配置するなどもう少しばかり手をいれるべきだと思った次第です。

ただし人がたくさん来れば山は荒れて、登攀路も崩れ、その補修にも経費がかかるでしょうね。けが人が出ても不思議はないコースですし。

 

通説この城は南朝方に付いた「狩野介貞長」の築城といわれます。「足利尊氏側の今川氏に対抗してこの辺りの国人土豪の諸氏」(大系)がこの安倍城を中心とした砦群に籠ったということでしょう。

 

ただし時代(戦国期への流れ)の要望はこの安倍城は無用。

駿府にはたくさんの名だたる武将が入っていますが誰もこの城を再興しようなどいう粋狂は現れなかったのでした。

 

最後の画像が彼のドタ靴。

まぁ私はあの手の履物での山城行脚をしたことがありませんが。気にも留めませんでした。

その前の画像が各所にある「分かれ」の図の一例。

⑤左端に富士山が見えます。

賎機山から駿府、日本平まで一望できるというこの地に掌握と安定の錯覚を得ることは戦略的にみて無能と呼ばれてしまうのかも。

ただし今あそこに立てば達成感と眺望の良さにこれまでの疲れは吹き飛びます。

 

⑪⑫は久住砦の土塁・堀切・虎口を推測しますが・・・石積みもあるような・・・