「生きている」と「生きていく」はちと違う

雨があがった境内では「物置」の階段のペンキ塗り。

しっかりと鉄骨製です。

130㎏もあるそうですが、もっとカンタンなものでよかったのかとも思いました。

なにしろ重すぎて運び入れるための頭数がないということそして設置の際に壁をぶち壊しそう。イイ方に考えれば「丈夫」なのですが。

 

ペンキ塗りに励んでいると殆ど毎日お参りに来られる檀家さんが親鸞さんの像に手を合わせてから、「ここに来ないと気が収まらない」そして「時々願い事も聞いてくれるような気がする」などと真顔で仰っていました。

「願い事」の件についてはただ苦笑い(当流の宗旨は「現世利益」にない)して聞いていただけですがその後その方から発せられた二文字には衝撃を受けました。

 

「先日、辛い通夜に行った」ということから始まったのですが、そもそも通夜葬儀には別れという「辛さ」が必ず伴いますので私も何気なく頷いて聞いていました。

するとその亡くなった方の年が中学1年生、そして死因が「自死」だったと告げられました。

両親もちろん眷属、同級生、その親たち学校関係者すべての者たちが驚き悲しんで長い長い通夜となったそう。

 

彼が結論を導いたであろうその理由について一同誰もが「わからない」と口にしていたのこと。

そこで私にその方は「住職はどう思う・・・」でした。

 

その書生さんの早まった処断について私が想うことは残念無念で「言葉はない」に等しい事案ですし、多感期の不可思議もありますのでやはり皆さんと同様「わからない」と。

ただし僧侶として「自死」という究極の選択に向かう者の心情を推測するに一言(いつもその語をもって考えますが)「居場所」について。

 

それは「立ち位置」「帰る場所」でもいいですし、「安心」「安寧・安養」とも解します。

 

善導さんの「日中無常偈」にある「喩若樹無根」の「根」にありますよう、人としていきるためには確りとした「立場」が不可欠です。

また当流には「安心決定鈔」(真宗聖典)なる書物が伝わり蓮如さんも御文の中で「安心」の語を使用していますが、その安心(あんじん)とは「居場所」であり転じて「信心」とも言われていますね。

 

その「安心」は今使用されているような「安心」の意味とは若干異にしますが、御文にあるよう「安き心」が失われてしまっているのがこの世の中なのかとも感じます。

その安心を求めていくスタンスこそが人の一番の価値であるはずなのですが、きっと社会全体が他の雑多な価値観にずっぽりと嵌まり込んでしまっているのでしょう。

 

何が大切なのか・・・、それは「根」であり「生きていく」こと以外はないことなのですが。

 

画像①は以前ブログで記した小田原花岳城跡城源寺の石標

「生きる」です。

   「人がいる 家がある 人々の生きる証 ここに」

「いる」は「居る」で「stay」「刹那だが無常にない安心」

②は先日の研修会にお招きした講師「真城義麿」さんの冊子

『「生きている」と「生きていく」』(真宗大谷派 東本願寺「真宗会館」出版)です。

こちらは年末年始に檀家さんに配布する予定です。