病患を得てこれをたのしむ 御文四帖-13 安心とは

「8020」だの「8050」だの私がその年齢にまで辿り着けるという約束があるワケでもないのに「大変だ 大変だ」(昨日ブログ)の如く書き散らかしていますが、蓮如上人が84歳の体調変化について記したもの(御文四帖-13 孟夏仲旬)がありますので紹介いたします。

 

これを拝読してやはり現実の80代というものは色々と難題が持ち上がってくるものだということがわかります。

 

「それ 秋去り春去り すでに当年は明応第七孟夏仲旬ごろになりぬれば 予が年齢つもりて八十四歳ぞかし  

しかるに当年にかぎりて ことのほか病気にをかさるるあひだ 

耳目 手足 身体 こころやすからざるあひだ これしかしながら業病のいたりなり  

または往生極楽の先相なりと覚悟せしむるところなり」  です。

 

「こころやすからず」の文言は切実感が出ていますし私たちの感覚に近く親しみやすさが伝わってきます。そして寂しさも一緒に漂ってきます。

 

さらに「ちょっと待ってよ・・・」の達観諦観は法然さんの

「浄土をねがふ行人は病患を得てひとへにこれをたのしむ」です。

蓮如さんもさすがにその境地にはなれないと、自らの事をまだまだダメダメであったと記しています。

こちらは「懐恙以為宝」の意とは少々違いましょう。

 

「これによりて法然聖人の御ことばにいはく『浄土をねがふ行人は 病患を得てひとへにこれをたのしむ』(伝通記糅鈔)とこそ仰せられたり   しかれども あながちに病患をよろこぶこころ さらにもつておこらず   あさましき身なり   はづべし  かなしむべきものか」

 

蓮如さんが昵懇にしていた一休さんが「そのとき」(後生の一大事)に「死にとうない」と言ったといわれますがその感覚でしょうね。

 

実際に法然さんがその手の事を言っていたのかは伝承の範囲だそうでハッキリしないところです。

しかし蓮如さんが敢えてその御文の中にその語を引用してきたのは人間というものの当然なる有り様(老と死の)に抗うことはできない自身の現実そのものなのではあるもののその心中が「やすからず」なのは法然さんのその言に対して「そうあるべきなのかもしれないが」やはり私には・・・ムリの記述。

これは多少の謙遜というよりも実のところの吐露でもあったでしょうし何しろ煩悩具足の最たる私どもへの微妙な「レベル調整」なのかも知れません。

 

「さりながら予が安心の一途 一念発起平生業成の宗旨においては いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし」と続きます。

ここに「安心」という語が出てきます。

私たちが日常的に使用している語ですが、仏教経典では頻出。

特に御文にもよく出てきます。善導さんの『往生礼讃』が元でしょうか。「安」でいえば「安養(あんにょう)の浄土」などとも表現されます。

そして「安心」の読みは「あんじん」ですが私ども「真宗聖典」の中にも「安心決定鈔」なる書がありましたね。

 

その現代、気軽に使用している「安心」の語は真宗では「阿弥陀如来48」のトップ、「18番」を「信じて称名し続けること」「聞くこと」に他ならないということでした。

 

四帖-13はまだそのあとに蓮如さんの述懐が続きますがこちらでは割愛。

ご興味のある方は「御文四帖-13」でググってくだされば・・・。

 

画像は山科「両御坊道道標」(場所はこちら)。

今は付近住宅のゴミ集積所の道標と化しているようです。

道標の下の部分はアスファルトによる道のかさ上げで埋もれてしまっています。

道標にしては低く感じるのはそのためですね。

磨滅もありますが下方の文字の判読もできません。

どちらの行政組織でもそうでしょうが道路課と文化財課等の横の連携などある筈もなく。

「ドウデモイイ」の部類だった・・・ということでしょうか。

その感覚の方が「病患」なのかも。

 

そして「御文 四帖-13」「安心決定鈔」最初の部分でした。