「心はおなじ 花のうてなぞ」 倶会一処 光明寺

例の台風による浜岡の停電は最低でも2日は続いていたとのこと。昨日初めて確認しました。

私は叔母がそれと同様の事を言っていたのは覚えていますが、「そんなわけはないわいなぁ」程度に聞く耳がありませんでした。

「トイレの使用ができない」の町内の放送があってそれが難儀したといいます。市の浄化槽が動かず平地地区は「逆流の恐れがあるから」とのことでした。

いったいそれにどのようにして対応したか・・・は聞きませんでしたがきっと相当に困ったでしょうね。

 

また、停電初日の翌日、通電した直後に火災があった(叔母)ということも事実でした。これが電信柱の変圧器からの火災だったと。塩害による火災ですね。

塩害おそるべし。南からの風のみ台風(降雨なし)は特に注意が必要です。

これは植物においてもいえることで雨なし台風一過は一安心しないで水撒きも頭に入れておくべきですね。

人間であっても植物であっても「塩分」は控えなくては。

各地で塩枯れの報が入っています。

 

さて昨日の続き、西山光明寺。こちらは浄土宗のお寺です。

法然さんの荼毘所ですからね。

浄土宗も時間の経過とともに微妙に宗旨が分岐しこちらは厳密にいえば「西山(せいざん)浄土宗」の総本山ということになります。

ちなみに禅林寺が「西山禅林寺派」総本山、誓願寺が「西山深草派」総本山となるようです(西山三派)。

また知恩院は鎮西派の総本山、増上寺はそちらの大本山、米原の蓮華寺は本山・・・などなど。

土宗にはたくさんの「本山」称号があって私の如く素人にはなかなか馴染めないところ。

まぁ一言「浄土宗」ということで。

 私ども真宗大谷派の本山は真宗本廟(東本願寺)一つですし。

各地に「別院」と呼ばれるお寺があるだけです。

 

その光明寺の秋の「紅葉特別入山」と宝物展示は12月2日までとのことですが、その期間は入山に金500円也が必要になります。

よってセコイことを言えば紅葉オンリーで伺うとすればそれ以降であっても結構楽しめるのではないでしょうか。

⑦が紅葉すればきっと見事でしょうね。

 

「御影堂」の扁額は④に

元祖慧成大師 諸国二十五霊場 第十六番礼所 西山光明寺

「 露の身は ここかしこにて きえぬとも 

           心はおなじ 花のうてなぞ 」 

                        大坂講中

 

法然さんの流罪が決定し、九条兼実がその別れこそ「今生の別れ」となると悲しんで詠んだという

「 ふりすてて 行くは別れの はしなれど 

           ふみわたすべき ことをしぞ思ふ 」の歌の返歌といいます。

 

ちなみに法然さんも親鸞さんもともに流罪で済んだというのは九条兼実が画策したといいます。そして法然さんと親鸞さんがその別れに際して詠んだ歌が

 

親鸞さん

「 会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 

            昨日今日とは 思わざりけり 」

法然さん返歌

「 別れ路の さのみ嘆くな法の友 

            また遇う国の ありと思えば 」

でしたね。

 

扁額の「花のうてな」とは蓮台のことです(拙寺伝圓光大師筆阿弥陀三尊)。

要はあっちこっちと別れてそれぞれがこの世を去っていく身であっても結局は「お浄土一つ」の「心はひとつ」であるということですね。

これは親鸞さんへの返歌の「また遇う国の ありと~」と同じ意でもありましょう。

このことを浄土教系(真宗は勿論)では「倶会一処」と呼ぶのでした。

 

それにしても法然さんの「大師号」というものも驚きます。

昨日の画像石碑には「圓光大師」の名がありましたが扁額の方は「慧成大師」になっています。

大師号は朝廷から贈られる名で「圓光大師」名は東山天皇(元禄十年1697)、「東漸(とうぜん)大師」が中御門天皇(宝永八年1711)五百回忌。それ以来+五十回忌ごとに大師号が贈られるという慣例(加謚 かし)になっていて「慧成「(えじょう)大師」はその50年後の五百五十回忌の際、桃園天皇(宝暦十一年1761)に贈られたもの。

 

⑥は若き日の法然さんが粟生野の高橋茂右衛門の屋敷に立ち寄った事をきっかけに念仏三昧院の発祥となったそうです。

寺の前身がその人の家(道場)だったということでしょう。

その願いに違わず法然さんはこの地を念仏教化のスタートの地とし当初の「最初の説法を聞かせて欲しい」との願いにこたえたといいます。

それが①の「浄土門根源地」の碑の意。

 

⑧は熊谷次郎直実。

関東下向の際、「阿弥陀さんがいる西方浄土に尻を向けることはできない」と馬に任せて東国へ降る図。

熊谷の一途な面を表しています。