愛荘町矢守の二ケ寺で見た標語 ラクになろう

先日は「世界幸福度ランキング」なる各国国民の幸福度というものを数値化して上から並べた順位が「日本は53位」という件に少々唖然とさせられた件を記しました。

そのあとに驚いた数字といえば、日本国内の引きこもりの人の数は予備軍含めて70万人というもの。

就労人口が少ないとか人工減少の危惧とか言っている中、それだけの数の人たちが自室、あるいは自宅に籠りっきりだというのですから。時に「自分の趣味」のみを目的の外出はする、という人が予備軍だそう。

 

その原因、理由は色々あって元から障がいのある方から何らかの病の発病や、学校や社会の中での経験からメンタル的障害に陥るなどなどです。

 

就労せずに親の年金目当てで放蕩生活をした挙句、親や親族に反発して自傷・他者(親へ)傷害行為に及ぶなどの事件を耳目にするようになりましたが、まったく痛ましいことです。

親の寿命など後先思量せずに、浪費のみに明け暮れ親の年金を喰い潰してしまうということに関して通常思考がされていればいわゆる破綻状態を推測できるのですが、やはりそこのところの修正が効かない点は、やはり病的でもあります。

病気であるならある意味致し方ないという面もありますが・・・

 

ではその病的な欲求(独りだけでいたい)の発達が自己の疎外感から起こっただとすると・・・

やはりそうさせたのは社会(学校)のあり方であると考えるのが私どもの反省すべきところ。

大切な事、人生のウェイトを掛けるべき要所、その目的について正確に伝えられなかったなどなど。

 

ただただ「やればできる」「努力すれば報われる」「大丈夫」という根拠レスな励ましと得るべき「宝物」(たからもの)指示と暗示の誤りを重ねてきた結果なのかも知れません。

 

さて、近江百済寺から愛荘町、琵琶湖に宇曽川が注ぐ方向(県道28)に進むと香之庄。

香之神社前の宝篋印塔を左手に進むと右手に大谷派の養専寺がありました。

そちらの標語

「あなたはいったいどうなりたいと生活しているのですか?」は漫然と日々生活を送る者にとって(私も含めて)厳しいお達しでした。

 

その道をさらに進むと面白い地名「野々目」があってこの「目」とはここからそう遠くはない場所の「目賀田」と同じ「目」なのかなど(自分の目なのか他人の目なのか仏が見た私なのか・・・それともまったく違う意味か・・・など)を考えながら「未来あふれる」という「むらじまん」と地区名を記した看板を横目に少し行けば「矢守」という区に入ります。

 

その矢守(場所はこちら)にあった大谷派と本願寺派のお寺で見かけた標語もなかなか悪くないと思い記させていただきます。

 

大谷派の願成寺前に掲げられたその地の仏教会の標語が

「いろいろと不思議は多いが 

     今生きていることが いちばんの不思議」

 

本願寺派の光源寺が

「いまの自分 『らしく』『身の丈』で乗り越える」

 

二つとも今(いま)の字が入っていました。

今を生かされている私(のいのち)こそが宝物であり、その私は背伸びする必要もなく、ありのままでイイのだ、ラクにいこう・・・ということ。

みんな大層な目標を掲げて自暴自棄になりすぎ。

気楽にいきましょうよ。