目賀田山は安土山安土城  光明寺野に移り目賀田

お見舞いに行ってきました。

昨日記した「ダメだろ」と思わせた交通事故で搬送された檀家さんは至って丈夫の様。

ただし「首と腰が痛い」とのこと。

どうやら拙寺にて墓参りしたあとの件だったようで「おかげさまで助かった」と仰っていました。

 

私はその方の「不死身の勲章」を得た事に安堵し「申し訳ないが爆笑させていただく」とそのイイ方に転じた結末に少々はしゃいでしまいました。

あの横転した全損の車の中にいて「よくもまぁそれで済んだ」との驚きです。

 

相良の大抵の人は「あの事故を見た」と言っているくらい目立つ場所(バスターミナル前)であり長時間規制が行われていましたから。

ただその方はいつもの調子で「頭に来ちゃった」(相手に対して・・・それは当たり前でしょう!)ということ、そして通院は車がないので友人に連れて行ってもらっているとのことでした。

外見上は何事もなくても「頸椎」は長引きますからね・・・

 

さて、先般記した愛知の八幡神社の藤原不比等の伝承について。

「淡海公(たんかいこう)」の墓がありました。

また神社と「愛知小十郎」なる人物との関わりを示唆していました。

 

まったく私のイイ加減な思い付きで記します。

世にある「愛知」という姓についてその読みは大抵が「あいち」であってこの地区(愛知川沿い)に1件あると思われる「愛知さん」が果たして「えち」と読まれるのかどうかはわかりませんが、とにかく「愛知姓」に関しては「1件はある」ことは確かなよう(電話帳にて)です。

どうしても直接の意味はなくとも目が行くところです。

 

珍しい名です。

私の周囲にはただの1人も見かけませんので。

ただし地元が「愛知」という地名ですので離散したとしてももっとあってもイイのでは・・・とは思いました。

昔から姓を名乗るには地名から取ることは常道ですからね(「○○の住」の○○の如く)。

 

よって当初は「愛知姓」一族(尾張発生とは違う)はこの地を中心にもっとあったかも・・・と思っています。。

どちらの段階で消滅に近いカタチで散っていったかといえばやはり信長による近江侵攻からでしょうね。

当然に六角氏被官で発祥は鎌倉期あたりから土着していたものと考えます。

 

私の思う「愛知氏」の少なさはひょっとして「目賀田氏」と同族であってその「目賀田」に収斂していったのかも・・・という「想像」です。

この姓もなかなか珍しいものがありますが、この姓の発祥はやはりこの愛知周辺であることは知られています(ただし後から入ったというイメージ)。

少ないと言っても有名人は散見。

 

ここでウィキペディアでにて「安土城」を検索してみてください。まずは検索しても流して読むような冒頭の部分です。

 

「安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。

信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。」とあります。

 

明智光秀配下というのは後に本能寺のあと光秀方に与力したためにそう記されていますが、もともと目賀田氏は鎌倉御家人として土着した地頭系土豪ですね。長く近江守護佐々木の配下としてあって、六角家臣団の中では最有力を推察される家系です。

 

そしてまたかつて催された「ふるさと展 愛荘町立歴史文化博物館」の新聞報道の「目賀田氏」について目賀田氏の出自に関する記述が見えます(地元新聞サイト)。

 

「平安時代に大納言藤原道綱の子三位の中将道忠が目賀田山(現安土山)に館を構えた」

 

です。「目賀田と目加田」二通りの記述を意識していますが両方ともアリですね。住宅図看板は「加」です。

 

信長の築いた安土山は六角氏居城の観音寺城と隣り合わせ。

その六角氏の巨大山城に隣接してあった「目賀田山」改「安土山」という城縄張りのスケールの広大さからも目賀田氏の立場として六角家は特に大事にまた、相互を補完するべくこの地を治めていたことが推察できるのです。

その根拠が上記、藤原氏からの「正当なる系統」だったはずです。

 

信長侵攻前まで、その目賀田山の城砦は有事の詰め城と考えると目賀田惣領家も各分家も平時はどちらかの平地の館群での生活が考えられます。「里・郷」という税収地盤、直接配下の領地にある館です。

それが旧地名愛知郡あたりだったと考えられなくもありません。

すると藤原家チャキチャキの目賀田氏が藤原不比等を敬いつつ伝承し愛知八幡神社に「淡海公」墓碑があったとしても不思議はないというところです。ただしあの墓碑の形式はせいぜい大正期の匂いがします。あいにくと墓碑裏側を確認しませんでした。

 

信長に目賀田山の城を追い出された目賀田氏はおそらくその「平時の館」に入ったのではないでしょうか。

「光明寺野」と呼ばれる平地に移ったといわれていますが、私はそもそもの館があった場所と思います。

「光明寺野」は目賀田氏が新城として本拠を据えたことから地名を「目賀田」としたのかと。

そしてこのあたりにももともとは自分の領地としての関りがあって城塞化したという推測です。

 

光明寺野は勿論「光明寺」が発祥でしょう(場所はこちら・・・こちらの地図も)。この地区は圧倒的に真宗でも大谷派寺院が多いのですが、こちらは本願寺派。正面右の櫓が何とも言えずカッコいい。

先日記した旧街道筋の「又十屋敷」手前を右折してしばらく、愛知神社の先になります。

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (土曜日, 22 4月 2017 11:18)

    私の親類(つい最近、Facebookにて知った人)に『埼玉』姓の方がいました。私の父の母方の従姉妹だそうです。珍しい名前です。ハンドルネームかと思っていましたが埼玉家に嫁したそうです。川崎在住の埼玉さん。以外に私の隣街でした。

    都道府県名と同じ名字、他にもありそうですね!静岡なんかもあるのでしょうか?

    笑福亭鶴瓶の本名は駿河さんですね。駿河姓もあまり聞かない名前ですね。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 22 4月 2017 19:52)

    ありがとうございます。
    日本全国、おかしな(失礼)苗字がありますね。
    埼玉さんは全国的に珍しいようですが古い地名を起源としているようですね。
    駿府・静岡さんも実際にあるようです。
    しかし「静岡」の起源は賎機山からといいますので埼玉さんよりは新参と思います。