時代はどうでしょう 圓光寺舟形光背阿弥陀座像

昨日行ったお宅で、「先般の火事の件には驚かされた」と聞かされました。

そう言われる日のその時間帯にはどうも私の記憶にはありませんのでむしろ私がそれに気付かなかった事を驚かされました。

「何それ?」です。

最近の絶不調によってその時間帯に布団の中で引っ繰り返っていた事も考えられますし、大音量でAFNを聴いていたかも知れませんね。だいたい拙寺よりそう遠く離れた場所ではありませんのでまったく不可解でなりません。行き交う消防車のサイレンが耳に入ってこないということですからね。

 

火事の原因は放火。ただし夫婦喧嘩からどちらかが自暴自棄となって自宅に火をかけたということでした。

ご当人や縁者からすれば深刻な件ではありますが他人さんからすれば「やれやれ」感満載です。

しかし放火となると重大刑事犯と相成りますので尋常な事ではありません。

どちら様かは存じ上げないですが「軽はずみ」から取り返しのつかない事への発展はよくあることで決して人様の行為をどうこう言う資格など私にはありませんが、怒りももう少しばかり自重する訓練をしていただきたいと思いました。

みなさん地元発生の事件には殊にお詳しくて色々根掘り葉掘りと探索、こういった場(お取越し)で「発表」に至ります。

新たにそういった話を聴く人は「なるほど」と言う具合に合点し他所に拡散していくという感じですね。

 

怒りが蔓延している時代です。

「怒るな」とはなかなか言いにくいところもありますがそういった事案を見聞きして各各「私の怒りは・・・どうする」とその捌け口、解消の方法と「コントロール」について自信の「呼吸」をキーワードに図って欲しいものです。

 

簡単に言えば「一呼吸おいて」とか「深呼吸して」という言葉がありますがそれは本当に基本です。

その基本的なごく自然の肉体の営みである「呼吸」を意識して「有難い」と「おかげさま」のストーリーを脳裏に描いてその二つ(有難う・おかげさま)を一つにまとめた称名「南無阿弥陀仏」を唱えれば(念仏メディテーション)とりあえずの激昂は抑えられるでしょう。

 

まぁ怒りのコントロールだけではなく、日々御内佛の前などで数分間でもそのスタンスで過ごす習慣があればきっと心身とも健やかに・・・

その「呼吸」というものがいかに基本かということをつくづく感じさせらている昨今ではありますが。

すこ~しずつ治りつつあるのかなぁと、そろそろ3か月目に突入しそうです。

 

さて念仏といえば阿弥陀さん。

昨日記した野洲久野部圓光寺の層塔のある境内には舟形光背状に切り出された石(花崗岩)に阿弥陀さんらしき座像が肉彫りされた石仏が覆堂の中に収められていました。

 

この手の石仏でいえば金剛輪寺の鎌倉期の阿弥陀さんを思いますが、比較すればこちらの石質は摩滅が激しいのかもともと稚拙な技量で彫ったのかは推測不明で、時代的にも古くて室町期辺りのものかと思ったところです(勝手な決めつけはいけませんが・・・)。もっとも阿弥陀さんでしたらただただ合掌してその出会いに感謝するだけなのですが。

ついつい古仏に趣向が。

おそらく長らく阿弥陀堂の前に建てられていたのでしょうね。

 

近くには古仏が並べられていました。

相変わらずの石仏+前掛けのパターンは閉口させられました。

ただし余所者が余計な事を申してはイケませんね。