作者(発注者)と往生した者の存在を推す 髪繍

昨日記した拙寺の髪繍阿弥陀如来来迎図」のつづき。

そちらはおそらく拙寺初代の今井権七(釋浄了)が石山本願寺からの退去のドサクサの際に入手したものですね。

顕如上人に別れを告げて上人から頂戴したという阿弥陀如来(方便法身の尊形)と五帖の御文(どちらも顕如署名入り)がありますが、その際に顕如さんからその来迎図を戴いたと考えるのが常識的な線。

荒廃畿内のどこかで権七が略奪あるいは金員を積んで買い求めたかという経緯も考えられますが、その仏画が初代、2代と拙寺御本尊としてあったといわれていますので、初代の権七が顕如さんの元を離れるにあたって「道場建立に本尊が不可欠」ということから顕如周辺から託されたという落としどころです。

 

以前のブログでも記しましたが拙寺にはこの「髪繍阿弥陀如来来迎図」の作者が源信(恵心僧都)であるとの言い伝えがあります。

江戸期、宝暦十年(1760)にこの軸を京都の仏師に鑑定のために赴いたのが七代目の釋祐信。やはりその伝承がホントかどうか知りたかったのでしょうね。

しかし当時の「鑑定」などもかなり眉唾のような気がします。

何を根拠に「相違ない」「真筆」と断言しているのかその場に居合わせたワケでもありませんのでやはりまともに頷くノー天気は控えたいところ。

 

この件、その手の「仮託」の言い伝えはよくある事。

当流でいう源信(恵心僧都)といえば親鸞聖人ご指定善知識の「七高層」のうちの第六祖で、本邦浄土系の祖と言われている人ですね(画像③)。ちなみに④の右側の「源空」とは親鸞さんの師で浄土宗開祖の法然さんのことです。

 

その「源信筆」の件、当流に於いてその知名度からして是非に「そうであって欲しい」という気持ちはわかりますね。

拙寺七代目が鑑定に及ぶなど「疑い」の気持ちも無理はないと思いますし・・・

 

①は昨日の髪繍阿弥陀仏のお軸ですが、参考のためメジャーを置いたもの。

鎌倉期の阿弥陀仏の大きさの流行について「三尺阿弥陀」という語があってそれをそのまま捉えれば「90cm少々の」ですがだいたい80㎝前後~90㎝前後の阿弥陀仏の「身長」を言いますね。

特に仏師快慶の「安阿弥様」にてその「三尺」の阿弥陀仏が世に流行していますが、それと同様に立ち姿の来迎図として、特に独尊正立正面の図の阿弥陀仏の場合もその「三尺」を踏襲したといわれています。

 

拙寺のそれは阿弥陀仏そのものの身長は約72㎝ですが光円から蓮台までを入れれば約三尺で、その「流行」を背景とした製作年代を考えるに鎌倉時代というのが妥当なところとなりましょう。

鎌倉期の阿弥陀如来像の「価値観」(下世話ですみません・・・)も大したものですが、源信さんの生きていた(947~1017)時代は、

平安期。そうとなるとその流れからは100年程度早いので、完全否定はしにくいものの確信(源信筆)は得られないところですね。

 

ただし私としては拙寺の伝承はやはり大切にしたいところで「伝源信」は重く考えます。

そうあった方がよりイメージが広がるというものですが、あの「髪繍」を考えると特にその思いは強くなります。

 

「髪繍」をおさらいすれば、これは亡き人を偲びそれを供養してできれば未来永劫にわたって遺し(遺品)かつ「仏」として同化したいという気持ちの表れだったという説があります。

 

奈良国立博物館学芸部長の内藤氏は今の葬儀式の如くの一連の葬送の儀をもって説明しています。

九条兼実の「玉葉」にその記述はあるとのことですがそれが兼実の息子の藤原良通が22歳で急逝したことからその流れが伝わってきます。

とにかく、貴族階層ということもあって庶民のそれとは格別なものになるのでしょうが、その一連の儀式は簡略なものではありませんでした。

 

四十九日までの七日×七の法要形式は当然の如くでしたが私がハッとさせられたのは死亡が殆ど確定したあと生命蘇生が仏事として行われていることもさることながら、出家授戒の儀、いわゆる剃髪が行われているということ。

私どももそれと同様の「帰敬式」がありますがそちらはあくまでも形式的ですので実際にそれが行われて、何よりそこには故人の身体の一部で尚且つ「素材」としての「髪」が実際に「ある」という事実に気が付いたというワケです。

 

故人の大切にしていたものは遺品として継承されることはよくありますが、この「髪の毛」は「遺髪」の概念はありますが、まさかそれを仏として繍み込むという発想には繋がりませんでした。亡き人の往生極楽を願いかつ祈念の対象としたということですね。

他にも大納言藤原為家が愛娘の遺髪を用いて種子(真言系 梵字であらわす仏の称)を作り、北条政子も剃髪した自らの髪で阿字(梵字の中心・スタートの字)で繍仏を描かせたといいます。

 

さて源信といえば源信母の手紙を思い出します。

前述の如くあの阿弥陀さんを源信筆と信じれば、その髪の持ち主を推測したいところで、それがまず思い浮かぶのが大和當麻で亡くなった源信さんの母ですね。

母の往生と供養のためにその髪を阿弥陀の螺髪に繍み込んで源信さん生涯の合掌対象としながら自らの往生を願ったのではないでしょうか。