鳥羽山城追記 城将は大久保忠世 小田原に入る前

先週末土日の法事2件とも施主も私も双方でズブ濡れを覚悟していました。

西日本から岐阜にかけての荒天と被災地の惨状にもかかわらず、ここ相良に於いてはまったく幸運を得たようで特に昨日などは晴天になったほどです。岐阜では信じられないほどの短時間降雨がありましたが、こちらから岐阜県内に入るに、そう大した時間を要さない近さをも感じる所ですから。

 

ちょっとした雨雲(前線)の通り道の違いでこうも変わるものかとやはりその下に居る私たちの「命の行き当たりばったり」を感じました。

それとも牧之原台地の先端は異次元の空間か(豪雨に関してのみですが・・・)。

 

おそらく週明けには東海地区の梅雨明けが発表されると思いますが境内観測を記せば、7/1にニーニーゼミ7/7にクマゼミの鳴き声を聞き、そして梅雨明け・・・と着実に季節は盛夏に向かっています。

今年もまた、沖縄行きの夢は消え失せたことは残念でしたがいずれは「後ろ髪」を気にせずにぶっちぎって行ってやろうと思っています。

これは「1年で一番いい沖縄」というものに6月下旬(沖縄の梅雨明けスグ)というイメージが凝り固まっているからです。

ただし奥方とも話しましたが果たしてあのギラギラ無風の浜辺に居られるのか・・・という疑問もあります。シミだらけで無惨な躰を晒すことになりましょう。

さあ台風8号に狙われている沖縄、そちらも心配です。逸れたとしても今度はそれが温帯低気圧となって本州に雨を降らしそうです。

 

さて、昨日の鳥羽山城の続き。

字名は「本城山」とあるそうでそれは二俣城攻めの主城、家康が入った城がこの鳥羽山城であったことが推測されるわけですが、二俣城の包囲には高天神を攻めるに砦群で囲んだと同様にこちらにも複数の陣城を置いています(蜷原砦・和田ケ島砦・毘沙門砦・・・)。それら他の砦から比してスケールの大きさと堅牢さの推測からしてその「本城山」の通り、橋頭二俣城攻めの本陣であったことはまちがいないところ。

城郭大系では「橋頭堡」という表現を使用していますが、まさに二俣攻め当初に家康が築いた城だったことで最初に楔を打ち込んだ地だったのでしょう。

 

長篠戦以前までは楔の機能止まりだった鳥羽山城でしたが、勝頼敗走後に形勢は逆転、さらに出張って上記砦群を置いて、兵糧を狭めていったものと思われます。

家康は鳥羽山城の主将として大久保忠世(またはこちら)置いて、本格的な城普請を行っています。

 

ちなみに二俣城武田軍籠城方は依田下野守信守、右衛門佐信蕃の父子で六カ月間耐えたものの開城勧告を受け入れたとのこと。

大久保忠世は二俣城に入りますが鳥羽山城の改修を進めたようで、近接していることからこちらの鳥羽山城を二俣城と混同して呼ぶ場合もあったよう。

三方ケ原で辛酸を舐めさせられている家康は信玄亡き後の手負いの勝頼であってもおっかなびっくりで二俣を囲んでいるよう感じます。

 

城址は推定される郭の数も多くかつて発掘調査が行われていますが、まだまだ手付かずのエリアも多くあるとのことで今後大きく化けそうな戦国の城でもあります。

 

③④は城址で見かけた天竜川を詠んだ石碑。