忠義あれど悋嗇で短慮 ? 成瀬藤蔵正義 寛政譜より 

現在の波津の地に本堂が完成したのが1791年(棟上げ)でした。

そもそもの菊川段平尾の本楽寺が高天神戦で焼けてからは相良大沢へ逃避。当時の名は「本楽院大澤寺」。ほとんど庵のような仏閣だったかと思われます。

 

それから家康による相良新町の街区整備の声に招かれて新町に本堂が完成したのが1617年です。家康による資財援助があったと思われますので本堂は現在同等かそれ以上の大きさ高さがあったかと思われます。1774年まで新町にありましたがそれが田沼意次老中就任の二年後のことです。

相良城縄張り、本丸正面の立地にあったことから移転の話があったといいますが、同時期に何故か焼失しています(その後1778年に相良城が落成)。

本堂の無い17年というブランクがあったということですが、その間に相良城の新築と破却という大工事がありそのドサクサの中、拙寺の本堂がかつての大きさ通りに建てられるに比較的材料が豊富にあったということがうかがわれます。

このように「資財」のバックアップに関しては家康と幕府の意向が相当含まれていたことが想えます。

 

先日はブログにて成瀬大域の書から法讃寺の顕彰碑解読の件を記していますが、それはひとえに成瀬藤蔵正義のはたらきへ報いるためだったのでしょう。そこで寛政譜の正義の件記します。

 

寛政重修諸家譜より

 

『成瀬正義  藤蔵  母は某氏

東照宮につかへたてまつり、六名郷において采地二百五十貫文をたまひ、御使番をつとめ、御旗奉行を兼ねる。鳥居四郎左衛門忠廣とともに近侍し専ら軍事にあづかる。

 

永禄五年同僚と争論しこれを討って遠江国に走る。

六年本願寺の門徒蜂起せし時、正義三河国に馳せ帰り、ただちに土呂寺にいり、妻子を携えて岡崎にいたりしかば、其ふたごころなきを感じたまひ、御勘気をゆるされ、これより数度の戦場に臨て御麾下にありて軍功あるにより、七年三河国岡郷において五十貫文の地を加へらる。

 

この年、吉田城を攻めたまふの時従軍す。

このとき敵の先鋒に金の切裂(へりに切り裂きを入れてなびきやすくした旗指)をさしたる侍諸卒を下知す。

正義これを見て衆に向かいて、我いま彼の者を討ち取るべしとて

すみやかに馳せ向かい、組討ちして其の首をとり、御感にあづかり、八年武田が兵、三河国山家三方の地に出張す。

 

これよりさき、正義あらたに作る所の鎧装飾類なし。

正義是を着して御前に出、我縦死(たとへ死)すといふども此鎧を汚すまじといふ。

人みな其悋嗇(りんしょく・・・ケチ)をわらふ。

この役に正義かの鎧を着し、篠の指物をさしたるが、畷を隔て矢軍あり。

畷より進まば鎧を汚す事を厭い本道より馳せむかふ。

東照宮これをご覧あり。歩卒三人をつかはして制しとどめたまふのところに其の二人は銕炮にあたりて死す。

正義これをかへりみずして進み首級を得て帰る。

すなはちこの日の一番首なり。

 

十一年、織田右府近江国に出張し、箕作城を攻めるの時、東照宮より援兵として松平勘四郎信一を向らる。

この時正義も相従いて先登に進み、衆に先立ちて、槍を合、首級を得たり。

元亀元年姉川合戦のとき、黒幌かけたる兵とたたかい、その首を得たり。

 

元亀三年十二月二十二日三方原合戦に疾く馳て首をとる。

正義さきにゆえありて鳥居四郎左衛門忠廣と武勇を争いひしかば、しきりに忠廣をたづぬるところ、忠廣もまた首級を得て正義をたづぬ。

ここに於いて二人相逢てまた同じく馬を進め、力戦して首を得たり。しかれども我軍利あらざるにより、弟正一を呼びていひけるは、汝は此道の案内をしれり。

(殿に)御供して濱松の城にいれたてまつるべし。我はここにとどまりて討死せん、とて其儘敵中に馳入、数人をきりてつゐに討死す。年三十八。法名大忠。入野村の宗源院に葬る。』

 

画像は相良本通りの駐車場。電話BOXが目印です。

こちらに新町の大澤寺がありました。墓域付随で以前の道路改修工事にて夥しい人骨が出てきたといいます。「報恩」の石碑が何かを語っているよう。

③は駐車場から道路を隔てた向こう側。この空き地は銀行の所有地になっているといいますが、以前の遊郭のあと。

だいたい齢70代以降のこの辺りの皆さんはご存知です。

空き地のさらに奥に相良庁舎が見えます。

 

新町大澤寺は城から正面、海方向を望むにかなり邪魔な存在になっていたと思われます。