これもご縁 奥の院法然さんとの出遭い 當麻寺

次回、お寺の遠足に行くからと言ってこのところ奈良當麻寺について撮りだめた画像をアップしていますが、あの時、有り得ないようなご縁に恵まれました。だから「有難い」のですが・・・

傍から見れば甚だ図々しいと思われるでしょうが絶妙なタイミングのお話。

 

私はできるだけ混雑のない場所をということで今回當麻寺へのお参りを決めました。

その「混雑」というものに拍車をかけるのが毎度修学旅行の書生さんたちです。

もしもその大挙にタイミングがあったとしたら・・・御想像の通り「じっくり拝観」やら「のんびり散策」の気分は吹き飛びますね。

 

これまでの画像たちは當麻寺の「人無し」による静寂の様子を伝えていますが実はあの時、書生さんたちの流れの中に身を任せた時間帯がありました。

画像はその「嵐の去ったあと」の画像たちでした。

 

ちょうど宝物館(拝観料アリ)にてその所蔵品いろいろを息子と眺めていた際、その一群たちの流れに押し出されてしまいました。

宝物館の担当者に「申し訳ない あとから再入場をどうぞ」と耳打ちされましたが他にも見どころが満載で最後に今一度回りたいと思っていましたが結局はパスしてしまいました。

 

書生さんたちはいくつかの集団に分けてそれぞれ順繰りに行動するパターンでしたのでどこかでタイミングを外さない限り「わいわいがやがや」の集団と一緒に流れて行かなくてはなりません。よってそれから逸れることを試行。

 

正面にフルに開かれていた先ほどまで彼らが居た御堂がありましたのでそちらに逃げ込むように上がらせていただきました。

静寂の空間を息子と独占して本堂左手(こちらから見れば右手)に座する一瞬「大日如来?」と見間違えてしまうくらいのお飾りを被った「寶冠阿弥陀如来」の前で佇んでいました。

 

すると別のグループの書生さんたちが本堂に上がりこんできてまごまごしているとあっという間に堂内満場に。

我らは御堂の隅っこに追いやられたうえに身動きも不能の状態になってしまいました。

苦笑いしていると、どうやらお坊さんの法話があるような雰囲気ですので黙って成り行きを見守ることに。

 

学生服姿の高校生の中に私服の私たち二人は強烈な違和感を醸し出していたことは事実ですが、書生さんたちにはジロジロと見やられたものの僧職の方、学校関係の方たちとも完璧に私たちを無視。法話や講義を聞くのは慣れていますし気持ちとしては開き直っていましたが「いつ摘まみだされるか」と多少はビクついていました。

 

この御堂の中で彼らと30分程度過ごす事になりましたがその中で分かったこと。

①この御堂は奥院の本堂(重要文化財)。

②堂の本尊は法然上人の木像

③隣接して阿弥陀堂がありますので当流からすれば御影堂か・・・

④宗祖を祀る場所は奥院と呼ぶそうですからやはり浄土宗

⑤ただし奥院は南北朝時代には往生院と呼ばれていた

⑥南北朝時代に洛中の状況が怪しくなった際知恩院からの避難

 となったのがこちら

⑧書生さんたちは浄土宗系の大阪「上宮太子高校」ということ

 で皆さんかなり優秀を思わせる所作と礼儀

⑦そもそもこの堂内が一般に公開されるのは限定期間のみ

⑧たまたま学校のオリエンテーリングが催されていて堂内での

 講話と法然さん座像参拝が主旨だったよう

⑨クラスの入れ替えのタイミングで誰もいない御堂に入ったと

 いうのが私たち

⑩僧侶も引率教師も「どちらかの関係者」と思い込んでの

 「そのまま」だったというところでしょう。

⑪念仏「十念合掌」を独特な調子で最初と最後に唱和していま

 した。南無阿弥陀仏の高校生活も今となってはイイものと。

 

ということで誰もが黙っていた「あんた誰?」を指摘されていたら尻尾を巻いて出て行ったところでしたがおかげさまで思わぬ出遭いと相成りました。

 

それではこちらの御本尊、法然さん座像(重要文化財)について紹介文を転記します。

「応永三年(1370)1370浄土宗の総本山 京都知恩院より本尊法然上人像を遷し浄土宗の大和本山として奥院は建立されました。法然上人存命時に創られた唯一の木像で、お姿があまりにもよく似ていたので『鏡の御影』と呼ばれています。

毎年二月二十四日法然上人の命日法要である御忌大法要の日のみ開帳されます。」

 

堂内の撮影はできませんので法然さんを紹介できないことが残念ですが、上宮太子高校のサイトにその座像の遠景が掲示されていましたのでお借りしました ⑦画像。