朝夷氏の居城・・・が通説 藤ケ谷城

うろうろすると東京都の条例に引っかかるようになったと聞きますが不審者扱いされるのは困りますね。

墓地でうろうろ、山でうろうろ。

どこでもかしこでも厳密にいえば私有地であって私のようなほっつき歩きを趣味とする者はいよいよ面倒な事になることは事前に予知して「不審度」を醸し出さないよう心がけなくてはならなくなりました。

特にこれからの季節感表す旬のものといえばタケノコ。

檀家さんで近くの山でタケノコを取りに行って警察沙汰になった方がいますが笑いごとではありません。

 

私は以前、相良平田寺にてタケノコを奥方他数人で取らせてもらった際のこと、私はおいしくいただきましたが、奥方は何故か謎の発疹と呼吸困難が出てそれ以来タケノコ嫌いになっています。

よって「殺す気か?」と罵られますので喜んでタケノコを持ち帰ろうとは思いません。

もっとも、「墓場のタケノコ」というのが気に入らなかったのかも知れません。

 

それにしても私がヤマイモ堀りに興じていた頃の話、奥方が「うまい」といって食していたあのヤマイモは実はその斜面の上に墓地があったということは未だ言っていません。

 

タケノコなどは今に至っては出始めの頃はともかくどちらの山でも「以後放置」というのが通例でまぁ一言挨拶でもすれば「好きなだけ持ってって」といわれるくらいでしょうね。

 

山歩きというか「こちらは〇〇城址」の如く案内掲示板の無い城跡などは100%私有地であることはまちがいないところですので「一般」を言うならば違法行為。

所有者のムシの居所次第では通報されかねませんね。

 

ということで私の目的を表する意味で許可権のあるなしにかかわらず人とみたらこちらから声かけします。人が見当たらなければ玄関のドアを叩くことも厭いません。

情報を得るということと「私の目的」を知らせる事が出来てすべてが御の字に収まります。

 

さて、表記藤ケ谷城はやはり訪れる人も稀な地元でもなか知る人も少ない古い城で朝夷氏の居城というのが通説です。

2度ほどブログでも記している上朝比奈小泉の伝朝夷三郎の宝篋印塔(朝夷さま)ですが横舟に元いた河原崎氏が横舟から移動させたものといいます。

 

朝夷氏は歴史の表舞台から姿を消してはいますが、実はこの地では数多い水野氏を名乗ったといいます。

この水野氏と河原崎氏の関りについては不詳ながら浅からず縁戚関係も考えられます。

代々に渡り墓地管理を任されていた河原崎氏が居所を変えるにあたって「朝夷さま」を移したのでしょうね。

 

ということで朝夷氏の居城藤ケ谷城に近接したどちらかにあの墓があったということになりますので、「藤ケ谷城=朝夷氏」という推測が成り立つのです。

 

私はこの城(場所はこちら)へ2回戦の登城を試みていますが、要は放置竹藪。

閑田院から南に延びる台地からさらに東にU字型に分岐する地、近隣の方がいうにはそちらを「藤ケ谷」と呼ぶようで2度ともその東に延びる尾根からでした。

尚西側の宮ケ谷の242号線からも、真北の尾根の始まりからも取りつくことができます。

 

取りつきは切岸状の崖の如くで楽ではありませんが、これは経年の崩落も重なったためでしょう。U字の南側の尾根上にはかつては墓域があって現在は閑田院に移設されています。よってこちらの墓は昨日記した無縁墓の中にあるはずです。この尾根の上の墓域にあの宝篋印塔があったのか・・・などというのは端折りすぎ。

 

そのU字型の入り口を「本屋敷」という方もいて、城主等屋敷はこちら側にあったかと。

西ノ谷歩道橋画像から見た藤ケ谷方向ですが、この台地を削る切通により横舟と宮ケ谷を結びます(矢印)。古道あるいは堀としてあったものが利便性から拡幅されたものと思います。

尚画像の右端が「U字」の南側の尾根となります(家屋の右側)。

 

いつもの如く山城を撮影してもただの藪。

比較的大きな堀切は南側からの尾根の付け根付近に。

本曲輪らしき場所に上がればご親切に展望用のベンチがありますが、気軽に来れる場所ではないはずですがどなたが・・・

眺望は直下の街道を見渡すにベストな場所。

 

防衛上北側からの尾根伝いの侵攻に脆弱性がある城です。

たとえば武田の侵攻の際であれば瞬時に落とされたかも知れません。まぁ当時の武田勢であれば逃げるが勝ちですね。

 

①②③は数日前の拙寺境内。

 

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コメント: 8
  • #1

    野村幸一 (木曜日, 05 4月 2018 12:32)

    朝夷という名字、ぱっと見の印象だとカッコいいな!と思いましたが、征夷大将軍の夷と同じ字なので"朝敵"みたいな印象も受けました。征夷大将軍は蝦夷征伐でしたよね?

    全国の朝夷様、好き勝手なこと書いてごめんなさい

  • #2

    河東村出身者 (金曜日, 06 4月 2018 07:49)

    元々 朝廷が勢力を伸ばしていく中で異民族が点在していたことが由来と何かで読みました。先住側なのかそれともそれを抑える側なのかは不明ですが。

  • #3

    今井 一光 (金曜日, 06 4月 2018 08:42)

    御両人さま。いつもありがとうございます。
    発祥語源についてはわかりませんが「あさひな」の字面については
    まずは「聞き書き」伝承で多様な字があてられることを見てきていますので
    「そんなものか」という感じ。ただし藤枝系朝比奈とは別系統でしょうね。
    しかし全国的に見てどちらも静岡県には多い姓です。

  • #4

    河東村出身者 (土曜日, 07 4月 2018 05:56)

    地名・名字は「あさひな」と読んでいますか? 名字の方はわからないのですが、下朝比奈の親戚は「あさいな」と読んでいるので。神奈川の「あさいなの切リ通し」と朝比奈を見ても読み→漢字→読みで変遷していくのは確かではあるのですが、

  • #5

    野村幸一 (土曜日, 07 4月 2018 15:50)

    朝比奈という名字は小学校の同級生にいました。富士宮市でしたが。こちらで記されている朝比奈、朝夷の流れの人かもしれませんねを

  • #6

    今井 一光 (土曜日, 07 4月 2018 20:08)

    御両人様。ありがとうございます。
    確証はありませんが「あさひな」読みを私はしています。
    地元でこの「朝夷」に馴染んでいる方はそうはいらっしゃらないかと。
    ただし数年前に御前崎市が伝「朝夷三郎の墓」について地元用にちょっとした書面が
    出回ったそうでその際も「あさひな」と記されていると聞きました。

    朝比奈も朝夷も「敵に回してはいけないつわもの」のイメージがありますので
    私ならその名を名のる方がいらしたらお友達になりたく思います。
    静岡に多いとはいえどもさすがに絶対数では少ない苗字ですね。
    朝夷彦八郎を祖に持つ水野氏が仰るには周辺に朝夷姓(朝比奈姓)が3件ほどあるが
    「現水野家との関りはない」と。
    苗字の変遷も各糸筋がありまた苗字を付することを法制化されたのが明治期ということもあって「急場思いつきの後付け」がありますから苗字だけのルーツ探しも難しいところがあるかも知れません。
    私は想像の楽しみと夢のようなことに半分片足を突っ込んでいます。

  • #7

    河東村出身者 (日曜日, 08 4月 2018 07:00)

    「あさいな」がー般的だと思い込んでいたので意外でしたが、旧仮名づかいだと「あさひな」のまま「あさいな」と読むはずなので昔から書き物はあさひなだったのかもしれません。親戚は明治になってから朝比奈に来ているので。

  • #8

    今井 一光 (日曜日, 08 4月 2018 10:13)

    ありがとうございます。
    「あさひなとあさいな」は耳で聞いて伝わった違いでしょうから
    私は「そんなものだろう」程度に流してしまっています。