河村多賀造 日露戦争碑にさりげなく 小堤山公園

夏の如くの気温上昇についに会館1階に避難していたハイビスカスを外に出しました。4か月振りとなります。

ボロボロに枯れ果てたもの、元気さを感じられないもの多数でこれからどう復活してくれるかが楽しみです。

枯れたとしてもやれるだけのことはやりましたので悔いはありません。

あれだけ寒い冬でしたので仕方がなかったという思いです。

 

しかし私の夢は彼らにとって快適な冬季用の部屋を作ってあげたいというもの。せめて最低でも10℃程度を維持できる部屋を。

しかしながらあ奴らは1株でも残れば「挿し木」というクローンにて増やすことができますから、厳密な「死」のイメージとは違いますね。

「あ奴ら」とは記したものの実は人間も植物と同様に挿し木ならぬクローンができるように技術は進んでいるとのこと。

倫理上の問題を残すのみといいますが、ちょっと怖いような。

遺伝子を操作するとなれば「優生」思想が芽をもたげましょう。悲劇を生む可能性があります。「劣性」を排除するという国家の進めた思想への反省は今求められていますね。

 

植物の特にソメイヨシノなどはクローンの最たるものですが開花期が同地区で殆ど同じであることは知られています。

かといって個性も個体差がないとは言い切れない部分があります。

小堤山の桜で、「今回は咲かない」を主張しているが如くのへそ曲がりもいるようです。それともこれから開花しようというのでしょうか。要観察です。

 

桜を見ながら公園をブラつけば、本多家の墓地群にたくさんの石標のあるエリアにぶつかりますが、その中で「まるで銃弾」と思わせる形状の石塔があります。

 

この塔はこの公園にかつてあった南と西の山が削平される以前に西端にあった慰霊塔のものと思われます。

それが「たしかあった?」という怪しい記憶ですが・・・。

山は古墳の址でしたからそれを壊してしまったことに対しても惜しい事をしたと思えます。

 

慰霊塔には明治37年(1904)~明治38年の日露戦争に地元より出征して亡くなった人たちの名がズラリと記されていますが相良尋常小学校長の「河村多賀造」の名が。

そういったご縁があって拙寺との関わりを持ち「相良町誌」を手掛け拙寺の古い文書にあたっていたということですね。

河村多賀造は旧金谷町の歴史家で金谷史について多様にその名を顕していますが、あの時代によく相良の歴史について調べ上げたものと感心していました。なるほどです。

 

当時好戦的「帝国主義」一本やりの我が国は如何にして中国の利権に群がる大国と渡り合い多くの儲け話から離れぬようパワー拮抗を維持するために1902年に英国と同盟を結んでいました。

そしてその2年後にロシアに宣戦布告(日露戦争)しています

結果、勝ち戦として国内は大いに浮ついて、政策はいよいよ軍備増強に走りだし次の戦争のステップとなったものですが、やはりそういった「勝ち戦」でもたくさんの「無常」を迎えた家族たちがあったのでした。

 

ざっと眺めればよく存じあげている名も見られます。

特にこの石標建碑に尽力した方たちですね。

布施勘兵衛・布施茂吉・布施清市・野村文平・小山竹蔵に側面には

山崎重蔵・小山和作の名も。

拙寺が世話になっている御家の先輩方です。

夕刻近かったせいで塔の影がまるで拙寺本堂を差しているように感じました。

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コメント: 6
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 30 3月 2018 09:28)

    名前を見つけたときは、肩書を見て「なんだ 竹蔵さんは町会議員をしていたんだ」と知りました。。私の祖母は議員(相良で初の女性議員だそうです)をしていたことは知っていましたが、まさか竹蔵さんもしていたとは・・・。
    家には両名共にそれらしい名残はありません。
    そんなもんですね。

    慰霊塔(子どもの頃は○○ボウ塔と言ってました。)が元あった場所や様子を知っている人も減ってきています。
    昔はあそこで西の山と南の山に別れて「陣とり?」などをして遊びました。

  • #2

    今井 一光 (金曜日, 30 3月 2018 21:09)

    ありがとうございます。
    私は南側の山のなだらかなスロープを登り切った辺りの藪の中で爆竹遊びをしたこと
    下の広場でソフトボールをしたことが想い出です。
    しかしあの頃の地形を思い出すと、今の様子からは想像できませんね。
    よくあれだけの大規模な公園開発を行ったものです。

    女性議員1号とのことですが、女性の社会進出について今のように叫ばれていない時代。当時どこの町でも女性の議員さんは見当たらなかったのではないでしょうか。
    そういう意味からも相良は先を行っていたのでしょうね。活力があった時代を思います。旧相良藩の気概というものがあったでしょうね。
    市制に移行してからの沈滞ムードがいけません。あの当時、牧之原市など有り得ないでしょうね。

  • #3

    野村幸一 (土曜日, 31 3月 2018 15:49)

    ご無沙汰です。
    去年、ここに行ったのですが気がつきませんでした。こんなに大きいのに…

    野村文平いますね!町会議員。

    下にある山本平三郎の胸像、私の母曰く歯科医をしていた曽祖父の野村庄十に面差しが似てるようです。曽祖父から見るとそう遠くない親戚みたいです。

  • #4

    今井 一光 (土曜日, 31 3月 2018 20:25)

    ありがとうございます。
    文平さんの羽振りの良さ(当時の、あちらに列挙された方々も同様です)とお寺に対する
    有徳人ぶりは特筆ものでたとえば現在の本堂裏の墓地を整備した方と聞きます。
    石積みの上に墓石を置くタイプに改変したと聞きます。
    海運業の失敗のきっかけは北海道沖での海難事故と他者の連帯保証をしたためと聞きます。

  • #5

    野村幸一 (土曜日, 31 3月 2018 23:19)

    そんな事があったのですか。初めて知りました。本堂裏手を整備した。というのは総本家の玲三氏から私の父も聞いておりました。

    私もそのような境界になりたいものです。

  • #6

    今井 一光 (日曜日, 01 4月 2018 00:43)

    ありがとうございます。
    各家、浮沈に復活いろいろな歴史があって今があるということですね。
    寺はただただ「おかげさま」です。