美人ケ谷城の北の備えの出城 滝ノ谷城

寅さんの映画のタイトルにもあった「~記念日」。

文字通り何かの事案について祝おうというものらしいですが、私ども野暮な人間にとって過去の栄誉を蒸し返して懐古、しみじみと祝福するなどまったくピンとこないことです。「今を一所懸命」それだけです。

まぁ人それぞれなのでしょうが、その手の事にこだわる思考というのは女子たちに多いのかとも感じます。

 

自らの誕生日を主に、キリストの生誕、バレンタインなんたら・・・

キリがありませんが、お隣の北の大将は毎年それにこだわっているといいます。

他にもいろいろ「〇〇記念」と称してお祭り騒ぎをしている様子を見聞きしますが、アレ(動員の様子)では仕事もロクに手につかないくらい?と心配したくなりますね。

 

まぁ大方の予想ではまたあの花火をぶち上げるのではないかとのことですが、ここへきて「太陽フレア」という天からのお達しがありました。この件、電子機器に異常をもたらすそうですね。

 

今の「花火」は電子機器のかたまりとあって、折角の大枚はたいての打ち上げにもかかわらずデータが得られないという大将にとってのリスクがあるとのこと。

よってここへ来てその理由によって「打ち上げないかも」という意見も出てきました。

そしてまた、米国あたりでは「是非撃ってほしい」と考えているともいいます。それはそのような状況の中での迎撃態勢のテストができるからだとのこと。

まぁ「勝手にしやがれ」のスタンスは以前と同じ。

 

トランプは「地球温暖化はフェイクニュース」と豪語し石炭石油業界の票を得ましたが、今度の米国に襲来した台風(ハリケーン)と強烈な被害、また次に連発して発生、上陸しようとする状況を何と思うのでしょうかね。興味深いところです。

 

さて、美人ケ谷のつづき。

拙寺14代の私の父と親しかったといわれる野村静夫さんのお母さんは石田姓。その石田家は石谷氏の霊栄神社を祭祀して今も「石谷氏居館跡」に住んでいるとのこと。

 

そういえば掛川から北上して直線方向が西郷・美人ケ谷、右折すれば倉真という交差点の名が「石畑」でしたが、「石」繋がりの変化は何かを示唆しているような・・・

 

美人ケ谷城(石谷城)の西郷民部少輔某(夫人は石谷行秋の妹)を推測する資料「山科家礼記」について城郭大系にありますので転記します。

「文明三年12月27日、幕府奉行人飯尾為信と飯尾之種連署で西郷八郎宛てに『山科家の雑掌(年貢の徴収雑務をする者)が申すには遠江国西郷荘の年貢が応仁元年(1467)以来滞納し難渋しているとのことである。違背せず早々に済ませるように』という趣旨の文面が出されたとある。」

 

そして西郷氏が山科家の荘園を管理する西郷荘土着の有力者で「殿垣戸」(石谷城の別名)に居館を構え、また年貢の滞納の件から西郷氏衰退の様もうかがえられて政清の代に西郷から石谷へと変えたと推測できるとのこと。

 

最後に「政清の住したという九個の巨石が残る石谷の里、あるいは石谷氏三代の霊を祀る霊栄大明神のある構江(かまえ)など、石谷氏屋敷跡と伝える地もあるが、これを立証する史料や遺構はみあたらない」とありました。

 

表記の滝ノ谷城(場所はこちら)とは原氏の孕石へ通じる直線的な街道が小山のために少々西側に回り込まねばならない場所がありますが、その山に築城されていました。美人ケ谷城の北の備えの出城というくくりの様です。

 

以前山中で猪やカモシカに出くわした事を記しましたがまさにそちらの山です。

美人ケ谷城と同様、法泉寺川を天然の堀としています。

遺構はそういえばそう・・・という感じでしょうか。

あの際は城址といえよりカモシカ近接に感動したものでした。

最後の画像が法泉寺方向。

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コメント: 8
  • #1

    野村幸一 (土曜日, 09 9月 2017)

    菩提寺だった観音寺が廃寺になっていて詳しい史料も今ひとつ…口伝を立証する術がなかなかみつかりませんね。上西郷にある五社神社の造営時の棟札に石ケ谷喜左衛門と石田忠左衛門の名が書かれているそうです。江戸時代中頃みたいです。しかし私の所持する系図にはその名前がありません。ですが、石田家系図の初期の五世代程は戒名と没年しか記されていないので、どこかで繋がる可能性はありますが…立証できません。

    石畑という地名も気になっています。



  • #2

    河東村出身者 (土曜日, 09 9月 2017 09:57)

    原氏は伊勢宗端の焼き討ちにあって滅んだそうですが(円通松堂禅師語録)、原川氏や原田氏等々残っているので石××のバリエーションも納得できるところです。石神も入るかどうかは微妙とは思いますが。

  • #3

    今井 一光 (土曜日, 09 9月 2017 20:07)

    野村さん
    私の知っているそのスジにハマっている人(殆ど転売目的)は神田の古本屋街を
    歩き回っているようです。
    まさにガンジスの砂の一粒を探し当てるようなものですが、思わぬ発見もあるようです。
    廃寺の過去帳などもあるところにはあるといいます。
    それが「出回っては不味い」という人を探すようですが
    あくどいといえば不道徳な商売です。

  • #4

    今井 一光 (土曜日, 09 9月 2017 20:37)

    河東さん
    「石」繋がりで「孕石」の存在は忘れていました。
    「原」+「石」と単純ですが「石」は西郷のそれを感じますね。
    あの地にそれほどまでに讃えるべき「石」があったのか・・・

    さて「三浦右衛門佐義鎮の最後」の件、面白かったです。
    私は小原鎮実の墓をいつブログアップしようかと思っていたところでした。
    彼は今川家臣団にあってキレモノながら相当のワルでしたが最期は
    呆気なかったようですね。
    あの辺の経緯は面白すぎてもったいぶっています。

  • #5

    河東村出身者 (土曜日, 09 9月 2017 22:39)

    そういえば孕石も石ですね。 原一族とされていたはずですが、今川家との近さ等考えると西郷に近かった可能性の方が高そうですね。

    小原鎮実の最後については、ブログの記事を書いた後、身ぐるみ剥がれてみっともなく命乞いした上に討たれたというのは、意図的に作られた逸話ではないか、特に三河で人質を殺された家臣たちの心を今川氏真に向けないように、怨みをはらさせようとしたのではないか、と想像しています。(とすると、本物の小原はどこに行ったのか、という謎が生まれることになるのですが)

  • #6

    今井一光 (土曜日, 09 9月 2017 23:07)

    小原鎮実のキャラは私にとって戦国時代のエピソードとしてなくてはならない
    顛末として大切です。
    私は定説通り、高天神で殺されたという方がスンナリと考えています。

  • #7

    ノムさん (日曜日, 10 9月 2017 20:52)

    先日、石田さんからの新たな資料が届きましたが以前貰った内容とほぼ一緒。。ですが、やはり石田氏としては石田家は石谷氏の分流ではなく西郷氏の分流という立場でした。始祖は石田左衛門尉行俊という事になっていますが何者かわかりません。石谷政清のおじさんになるようですが、裏付ける資料が…西郷庄の名主公文と系図には書いてありますが、それがどういうものかはわかりません。遠江古蹟繪圖には江戸時代の中頃に石谷氏から石田氏に改名したと記されていたり…

    考えてると脳みそが耳の穴から流れでそうになります(笑)

  • #8

    今井 一光 (日曜日, 10 9月 2017 22:43)

    ありがとうございます。
    歴史探求の基本ですが、まず「わからない」が一番ですね。
    大昔の事ですから史料がなければわかりようがありません。
    また断片的に史料があったとしても説得力があって矛盾がないというものは稀です。
    検証などもできないものばかりです。
    そもそもこう言ってしまっては元も子もないのですが、
    歴史というものは好きものによって「後世に作るもの」という傾向がある
    というのも心に留めおいています。

    自らの家のすばらしさと正当性を示すために偽系図を作成した(疑い)などの話はまたぞろです。特に徳川家康の藤原出自から源氏に変えた話などは有名なところですね。
    創作があったとすれば矛盾がどこかで生じてきますし。

    当時は名のりが同じだったり後世文献の錯誤記述と思われることも多々あるようですからすべて「推測のレベル」のスタンスでいいと思われます。
    つい最近まで親鸞も聖徳太子も実在していなかったなどの説もまことしやかに囃されていました。
    私たちが見知っていた頼朝像も尊氏像も今になって違う人ともいわれていますね。