久松松平 駿府城代 松平勝政と勝忠の墓 増善寺 

朝方の2度のザッと来る雨は「どうなることやら・・・」と一瞬思いましたがうまいこと相良の降雨は「それだけ」でした。

蒸し暑さは残りましたが、気温はそうも上がらず連日の「強烈感」はなし、午後はフローリングの続きを少々。

それにしても夜間と朝に雨が降って昼間の活動期はまずまずというのはとてもラクです。

そこは農業関係者も同感だと思いますが、水やりの労力がそれだけで浮きます。

 

さて、大河ドラマはこのシリーズはじめて「まつした」の台詞が出ましたね。それも2度も。

私の当初予測していた「頭陀寺」(またはこちらこちら)がらみではありませんでしたが、まぁ同系ということで・・・松下さん、目出度く思います。

私がNHKのこの演出はあの子役(直政幼少役)を引き立てる意味があったと邪推するも、あそこで井伊直政継父となる「松下家」に触れるなど、(あの修験諜報活動の彼はストーリー上のポイントにはなっていますが母が嫁ぐ松下は今のところ出てきません)いかにも「歴史好き」には嬉しい演出だったかも。

 

これから今川が壊れていくところも面白いですが、来週は井伊谷三人衆に再びスポットが当たるのではないでしょうか。

 

番組最後の紹介コーナーは寿桂尼の竜雲寺と氏親の増善寺(氏親の墓)でした。

増善寺は家康にとっても関わりの深いお寺ですが、家康に付き従った松平勝政の墓があります。

彼は19歳で名護屋城(文禄の役)、27歳で関ケ原そして大坂の役を経て寛永十年(1633)に駿府城代、寛永十二年に駿府で亡くなっています。

 

①画像左側、背の高い宝篋印塔が勝政のもの。

お隣が松平勝忠の墓、勝政の孫にあたります。駿府城代久松松平ご縁の墓でした。②は背後から。

こちらにも寿桂尼の句碑がありました。

画像は私の4代前のデジカメから。

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (火曜日, 25 7月 2017 06:01)

    この時期長則・之綱をはじめとする頭陀寺の一族は、離散していて頭陀寺にいるのは都筑秀綱の実家の松下氏です。清景の家(常慶の実家)は更に別の家な上に、清景は新野左馬助家臣との説もあり混沌としています。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 25 7月 2017 09:09)

    ありがとうございます。
    その「離散」が今の遠州「松下」の広がりになったのでしょうね。
    各各が「松下」の継承こそ一義として伝えたに相違ありませんが
    それだけ遠州名家の一つということが感じられます。

    「都筑秀綱の実家」の件
    河東さんのブログ「本多忠勝家臣団の 浜松 松下家関係者 」拝見しました。