駿河安倍城増善寺 四十にて思う 今川氏親

伊勢新九郎盛時(北条早雲)の姉、北川殿と今川義忠との間に生まれた今川家7代当主今川氏親はその子、氏輝・義元に引き継ぐ当家絶頂時代の元を確立しました。

塩買坂で討ち取られた父義忠の仇を討つが如く斯波氏を遠州より駆逐して、以後様々な領国運営強化の策を敷いていきます。

強い奥さん寿桂尼の意向が強く反映されたといわれる「今川仮名目録」という分国法を当時としてはいち早く制定し、幕府からの「独立宣言」を臭わせる意思も表明しています。

この法の制定時期が今川家の守護大名→戦国大名へと脱皮した頃です。

 

 静岡市葵区慈悲尾(しいのお)の増善寺(場所はここ)は安倍川の西岸丘陵部にある阿部城址の麓に今川氏親の手によって作られた寺です(現曹洞宗)。

勿論今川家官寺として氏親の葬儀が壮大なスケールで取り行われました。

今川家人質時代の松平元康(家康)もこちらのお寺にはご縁が深く当時の家康ご縁の宝物が伝わっています。

 

 そのお寺の結界石をひかえた山門奥に、氏親の句碑がありました。

朝倉義景の「40歳」に引き続き今川氏親の40歳に思うことです。

 

釈教の心を 今川氏親  いかがえむ

四十あまりの 年のせに

とかぬ所の 法のまことを

「四十歳を過ぎたが今だ仏の教えの何たるかを知らない

 

  どのように会得すればいいのだろう

 

     まだまだ努めていかなくては」