後世モニュメントと誤解? 宇治の浮島十三重塔

昨日も遠州は天候不順。

おそらく全国でもこの辺りの天気が一番悪かったのではないでしょうか。例によって大雨やら竜巻の注意報が発せられていましたが、朝からは陽の出ている時間帯もあったりでさっぱり予測ができません。

 

考えていても仕方なし、怪しい天気でしたが「えいやぁ」という気持ちで身支度を整え静波墓苑の草取りと除草剤噴霧へ。

除草剤を噴霧すればせめて数時間は雨には降られたくありません。効果がなくなってしまいますからね。よって躊躇していたのでした(薬剤は葉から入って根に吸収されるタイプです)。

この週末にやっつけておかないと時間がとれないうえ、ますます雑草は繁茂しますし。

 

帰宅してしばらくして遂に例の「局地的」というヤツに見舞われてしまいました。まるで薬剤を洗い流すかのように・・・

まったく裏目に出てしまいましたね。

もっと腹立たしかったのは花ガラが入ったバケットに雨が降り注いで溜まっていました

 

花ガラは昨日処分場に行ったばかりでしたが既に2袋がいっぱいになっていました。

天候不順の中でしたがお盆のお参りの方々がひっきりなしに訪れていましたから。

みなさんお花をキレイに交換して15日を迎えたいですからね。

 

午後からは浜岡チェック。

叔母さんの様子を久しぶりにこの目で確認しに向かいました。

家に入ってみると・・・案の定、室内は「高温多湿」ジャングルの様。

私は「死んじまうぞ!!」といいながらエアコンをオンしました。

年配者の温度感覚はかなり鈍く、それを放置していたら「熱中症」になるのでしょうね。

これから電話で毎日のようにエアコンスイッチオンのチェックをしなくてはならないでしょう。

 

さて、宇治平等院の先、宇治浮島には昨日記した「一番乗り」の碑があります。ただし浮島は2つあって対岸の宇治神社方向に向かう朝霧橋の架かる橘島とそして塔ノ島です。

二つの浮島は「中の島橋」で結ばれていますが塔ノ島の方は喜撰橋で平等院側につながっています。

昨日記した舟が係留されている画像が喜撰橋上からのものになります。

 

こちら塔ノ島の名は文字通り塔が建っているからなのでしょうが、岸側から見たその塔は、ぱっと見「粋狂な後世のモニュメント」のようにしか見えないデカさがあります。

最近ブログで記した層塔といえば馬町十三重石塔(永仁三年 1295)の「6m」でした。

しかしこちらの層塔はなんと約15m。

普通に考えれば「遊園地?」と思われても仕方がないような巨大なもの。

そして何よりもお気軽すぎて(スグ間近まで行ける)大した貴重性というものが感じられない立ち位置となっているのです。

 

しかし・・・そうです、この塔が弘安九年(1286)の銘がある層塔で「古くて一番大きい」もの。重文指定の石塔です。

水害で流された宇治橋の再架建造の際、災害の因果の報い(川での殺生)を払拭するために奈良西大寺の叡尊がこの塔(供養塔)を建てたといわれます。

馬町塔はこちらの塔より後になりますが、やはり馬町塔を建てた僧は叡尊の影響を受けていたようです。

 

こちらも史上幾度もなく水害に見舞われて倒壊、流出、逸失を重ねているようで、明治期の数点の後補(九重目の屋根と相輪)を含みますがこれだけのものが残ってなお雄姿を見せつけているところは特筆ものです。

 

勿論軸部分四面梵字種子は当時のものです。

例によって川勝政太郎氏の表現を記せば・・・

 

「宇治川の急流に臨んで立つこの大石塔は我が国古石塔中第一位の高さを誇る。低平な基礎上に据えられた初重軸部四面の金剛界四仏の種子は、実に雄大 薬研彫の迫力が十分に発揮される。屋根の軒厚く両端への反りの確かさ、鎌倉中期から後期への様式の整備されていくところがわかる。

第一重屋根裏だけに一段の垂木型が作られている。基礎の北面輪郭内に1000字を超える長文の刻銘がある。

磨滅して読めぬところもあるが宇治架橋の歴史からはじめて、西大寺の叡尊が橋を再興するにあたり 

゛於橋南起石塔一十三重河上、泰安仏舎利幷数巻妙典・・方今

弘安第九歳(1286)厳寒十一月仲旬九刻゛・・・の如く建塔について記してある。 

慶長元年(1596)の大地震に相輪が落ちて砕け、上方四重が傾いたのを、慶安三年(1650)淀城城主永井尚政が再興した時の追銘が基礎南面にある