主人留守に生まれた子の名は 笠原家過去帳 添書き  

アメリカ人が選んだエライ人・・・大統領殿・・・ですからそれが「アメリカ」です。

そのアメリカはパリ協定(気候変動抑制)からの「離脱」を宣言しました。

 

アメリカファーストを一義にやりたい放題のアメリカを主導しているあの人の姿を見ているとやはり本当の一番大切なところは「自分自身」のように見えます。保護主義とは利己主義。

そして「私が一番の思想」はこの国のエライ人とも共通のようで、道理でウマが合いそうな感じを漂わせていました。

 

もっとも正式な離脱の効力が発生するのはその次の「アメリカさん」を選ぶ選挙の翌日だそうで、「次もある」と踏んでのことか、ただの選挙公約のポーズなのか・・・その両方かも。

そして身に迫りつつある弾劾の風をいい塩梅にはぐらかすという意味もあるようです。

 

彼が離脱を決断したその理由(温暖化なんてデッチあげ)も「根拠が薄弱」との指摘がありますね。

まぁ、これから埋蔵されている石炭やシェールガスをバンバン掘りまくって「儲けたい」という業界の後ろ盾があるのでしょうが。

 

とにかくエライ人はヤバくなると突飛なことをして、差し迫った問題をはぐらかそうとします。我が国の場合は黙っていてもヤバくなると自然にミサイルが飛んできて注意を削いでくれますから・・・不思議です。後ろで繋がっていたりして・・・

 

一昨日は当牧之原の市長が「今季限りでやめる」と正式発表がありました。

私としては相良から市長が出てくれないとますますバランスが悪くなるような気がしてなりません(旧榛原町とのつりあい)。

 

また現市長は浜岡原発の廃炉を強く主張していましたのでその意思を継承してくれる市長でなくては困りますね。

国レベルで少子化が止まらず人口減少に歯止めがかからない現状、あの迷惑施設(そのようにしか考えられません)が息を吹き返したらますますこの地の住人は消えて行くでしょう。

それまでされてここに住む意味、理由がなくなるということです。

 

さて、柏原の笠原家の家系図冒頭の添え書きの部分を拝見することができました。柏原とは旧掛川藩領時代の旧榛原町内の名称です。

当時は「静波」なるキラキラネームはありませんでしたから。しかし「古い人」には結構知られていた地名です。

ただしお隣の「川崎」という名の方は小学校などが残っているため、耳に馴染んでいますがもはや地元でも「柏原」を言う人はいないでしょうね。

 

笠原家についてはこちらこちらで記したのちこちらこちらでも・・・これまでの過去ブログを見ていると笠原家の出自について「近江説ありの三河説 三河説ありの近江説」のどっちつかずでしたがやはりこちらを見ても「三河くさい」部分大いに感じますが断定できません。

しかし天正年間に三河から柏原に引っ越し・・・との文言はそろそろ笠原家出自を三河説に固めるべきかと思った次第です。

それ以前の笠原家については本證寺に過去帳が残っていれば糸口はあるかもしれませんね。

 

面白いと唸ったのが初代笠原嘉兵衛が元亀二年生まれで柏原にやってきたのが十九歳の時(天正十八年)。そこまで詳細に記された文書が残っていることが驚きでした。

その長男が甚右衛門で2代目になりますが、長女出生の添え書きが面白い。誕生が元和元年(1615)とありますが、笠原嘉兵衛が大坂の陣に出征して家を留守にしていた際に生まれたということで「るす」と名付けたとあります。そのおおらかさが素敵に感じました。ちなみにその時笠原嘉兵衛は四十四歳。

どちらに属して大坂に赴いたのか不明です。

 

商家の大店のイメージがする笠原家はやはり大元は武門でしたね。現御当主が家に刀が数本伝わっていてかなり前に売りさばいたことを以前語っていました。

 

この添え書き部分は昭和初期に転記されたものですが興味深いことが色々記されています。天保期ですから笠原家が柏原にやって来てからかなりのブランクがありますが、本證寺(大澤寺の本寺)とかなりのコネがあったことが窺えます。

 

財物を大澤寺に入れたという記述です。

笠原家と拙寺が古くからの親戚つきあいをしているということは伝わっていますが、どれだけの財物を寄進していただいていたのか・・・

恐ろしいというか今寺に現存していないところも驚き。

似たようなものはあるにはありますが、「法然上人の御影」など聞いた事もありません。

また「家来 源右衛門」の記述など商人というよりも武家の如くですね。今後笠原家についても大坂・三河での活動がわかりましたので何かの折に調べられたらと思っています。

 

付属記事

事ハ前代八代ノ記事ニテ祖先ノ往時ニ深キ

関係ヲ有スト認ム特ニ付属記事トス

 

天保十一庚子年十月

三州野寺本證寺御宝物様相良大

澤寺江御入十月六日ヨリ同十日迄御弘通御座候

 

右ニ付御参詣仕て別段御披露御座候

依之御志シ印ス

 

一金弐百疋   御宝物様ノ志シ 

一金壱朱    御役寺ヘ 

一青銅弐百文  御役僧 

一同 四拾疋  御侍弐人ヘ  〆

 

右御宝物様之内 

祖師聖人様   御左上之御彰(影か)様 

元祖法然聖人様 御彰(影か)様

 

十月十二日

右御宝物御改付

御長持ニ入先祖恩縁ヲ以テ相良大澤寺

案内ニテ上下四人御入阿弥陀経并ニ御縁記

御座語リ尤モ御請待ニは無御座候

         右御志金百疋            

             差上申候

 

尚又先年家来源右衛門殿相譲リ候先祖

御守護申候額(顕)如上人様御裏御如来

様源右衛門方ヨリ御取寄御改御拝禮御座候

尚又源右衛門方へ相返し申候

天保十一庚子年十月十二日