「よ」と「り」を合体して「ゟ」 笠原家文書

私のような庶民には異次元のおはなし、世界的な経済政策のすり合わせのイベント(G20)が開催されるとのこと。

各国それぞれの思惑が絡んで「保護主義と為替(通貨安)」の本質に切り込めるハズがありませんのでいわゆる形式的なお祭りイベントの域ということで理解させていただいています。

 

源信さんのお母さんも仰っていたように、坊さんがそろばん勘定(経済活動―生き馬の目を抜くような)に長けているのは少々具合が良くないことでありますし、極論それが「ゼロ-サム」の如く「一方の損失が私の利益」であるような活動であれば阿弥陀仏の「平等施一切」の道からは程遠いことになりますので金勘定は二の次。

ただし、そうも言っていられないのが「経営」というもの。

開き直ってこじつければその文字は「経典を営む」と書きますしね。そこのところ苦手の中の苦手のところです。

 

G20の寄合仲間について思うに我が国の江戸時代の商業者グループの組合、「株仲間」という言葉が頭をよぎります。

明治維新後に廃止され現在残っている姿としては相撲世界に見られるもの(年寄株)のみのようですがこちらは楽市楽座の「座」からの利便継承の組合組織のことですね。

 

また「株仲間」といえば田沼意次の重点的奨励施策であって幕府経営、課金システムの目玉になりました。

 

さて笠原家については何度か記していますが(こちらまたはこちらこちら)、笠原八郎左衛門は笠原家の世襲名。

慶安三年(1650)没の初代から明治二十五年(1892)没の九代の間その名を名のっています。

その継承の中、寛延弐年(1742)笠原八郎左衛門五世あての書面があります。

笠原家は相当な地区顔役であったことは承知していますが文書に出て来る地名はかなりの広域を思います。各方面で名の知れた家ということがこの文書でわかります。

 

田沼意次が相良にやってきたのが宝暦九年(1751)でそれまで禁止状態だった「株仲間」を再開させたのが側用人となった明和六年(1769)以降のことでしょうから、それ以前に「仲間」や「組合」という文字がこの地区で使用されていたという史料です。

 

扱証文之事

一才賀代仲間甚三郎義十石嶋江引越候ニ付代之儀青池村志加右衛門新田中堤岡御座松ゟ東住吉浜川尻浜迄は代取仲間出会人数面割を以割合可申候尤才賀組合衆中立会申候節は前々之通才賀本代仲間ニ而割合可申候猶又外浜之儀は前々之通割合可申候旨代仲間江為申聞取扱申所相違無御座候為後日証文取替申所如件

寛延弐年己巳十一月       

  植松村 榎田庄五郎       

  柏原村 郷野作右衛門

 

            柏原町  笠原八郎左衛門殿

 

何しろ地名にピンとくるものがないと今一つ不明に陥るところですので蛇足付け加えると・・・

まず「一才」と頭から読むとおかしくなってしまいますね。

この「一」とは「まず一つ目」を表す「一」であって「その二」がたとえ無いとしても往々にして「一」などと記すことがあります。

よって「一」は無視して「才賀~」が主語。

これは地名で「雑賀」の略です。

勝間田川左岸の平坦地に入植開拓したのが紀伊雑賀門徒と言われていますが、そちらからその地を「雑賀」と呼ぶようになったと言います。

尚、現在の「静波」なる地名は最近のキラキラネームの走りで明治以後のものです。では静波の旧名は何かと言えば「柏原」。

「十石嶋」は坂口谷川沿いの寄子東福田(ひがしふんだ)の中間くらいの地名。

 

固有の地名ばかり出てきますが前述の通り、かなり「株仲間」を連想する書面です。

史料館の長谷川氏にこちらを見てもらうとやはり、その「株仲間」の連想を指摘していました。

ただしハッキリしませんので詳細は不明です。一緒にあった木札もその手の関りを推察しますが、この木札の解読はのちの宿題としておきます。

 

尚、「柏原村 郷野作右衛門」とありますが「郷野家」は現在も続いているとのこと。「植松村 榎田庄五郎」は宿題。

 

また、表記「ゟ」は古文書によく出てきますね。

何のことはない、流行りだった「パイナップル+ペン・・・」ではありませんが「よ」と「り」を合体した文字の「より」ですね。

現在であっても十分使える文字だと思いますが、使用されている様子はありません。

ちなみにワープロで「より」と入力してみてください。

「ゟ」が候補にあがるはずです。

完全に死滅した文字ではありませんね。