当地笠原家の名物

静波の笠原家近江(三河門徒説もあり)から遠州に下向し静波の地に土着したといいますがそれ以前の出自についてはあくまでも推測の域を出ることはできません。

一方、小田原北条家家臣として相模国を駆け廻った備中国後月郡荏原庄(しつきのこおりえばらのしょう)を出自といわれる笠原氏は、伊勢氏譜代を推して名だたる名家だったためにてっきり静岡県の在の人(伊豆)だと思われていました。

 

 小田原北条系笠原氏は伊勢宗瑞(別名・・・伊勢盛時 伊勢新九郎 北条早雲)と同行していたため、伊勢宗瑞の出自が不明で所謂、北条早雲が「戦国の梟雄」呼ばわりされていた頃は笠原氏は「伊豆の住」であったとされるのは当然だったでしょう。

要は伊勢宗瑞が侵攻した韮山周辺の国人衆を吸収していったという説ですね。 

 現在の岡山県井原市にある、1999年開業の井原鉄道の駅に「早雲の里荏原駅」という駅名(場所はここ)がありますが

ここ周辺には案外今も「笠原姓」を名乗る家が多いようです。

 

さて画像は静波笠原家家宝のひとつです。

全樂堂の署名落款の通り渡辺崋山筆。

渡辺崋山は渥美半島は三河田原藩、藩士で革新的な藩政を推進し当時の蘭学者集団の理解者でありましたが、蛮社の獄で「江川太郎左衛門(英龍)」と、あの南町奉行所で「遠山金四郎」ともライバルだった、蘭学嫌いの「鳥居耀蔵」との確執から巻き添えになって「非業の死を遂げた画家」でもあります。崋山は現在多くの作品が重文に指定されている「谷文晁」の写山楼(画塾)の門を叩いています

 

 人生末期、蟄居中の極貧解消のため、絵描きとしてその作品を商っていますが三河―江戸を結ぶ海路の中継点である静波の廻船の豪商、笠原家に崋山の作品が残っていることは不思議の無いところです。