流転 旧馬町十三重塔 京都国立博物館 伝佐藤兄弟塔

昨日は曹洞宗寺院の大夜(通夜)に参列しました。

私のお粗末ながらの思いですが椅子が用意されていて少々安堵。レベル低いですね。

これはまず膝痛―痺れの心配は不要ですからね。しかし案外椅子というものも尻が痛くなります。

同じ姿勢の持続はどのようなカタチであっても「我慢」が伴いますね。まぁ贅沢で我がままな話です。

 

もっともその緊張感というものはまず日ごろ触れる事はない「仏遺教経」なるお釈迦さんの遺書とも言われる経本が配布され、それをご僧侶方々一同とご一緒に拝読することです。

前回の相良地区寺院の大夜も同宗派でしたので今年2回目です。

 

それがまた早い。興味はありますので訓読みカナ有りですから、ゆっくりであれば「理解」を試みながら楽しむことはできるのでしょうが、回し焼香の焼香鉢が回って来ようものなら、相当焦ります。

 

この経典をざっと見まわして思うところ。

その中で「縦」という字に「ほしいまま」とカナが振ってありました。

それに対して「横」という字を「よこしま」(邪)と読ませることがありますが、この「縦と横」の件、考えさせられました。

 

縦は「進むこと」横は「留まって考える」とすると、それはどちらも煩悩を以て各、度を越せば上記のカナの如くになるのかも知れません。

私は真宗門徒ですのでやはり縦と横ジグザグで進む「あみだくじ」の如くがよろしいなどと想像しながら勝手に納得していました。

 

さて、今度の京都への納骨兼バス遠足の2日目は京都国立博物館の海北友松展に向かうことを記しました。

その博物館の庭に点在する見ものについて記していますがそちらとは別の位置に表記大物の石塔があります。

 

この手の十三重塔などの層塔というものはそれは古い時代のものは当然にありますが、案外新しめのものが市中にありふれていて、寺院以外趣味的に好まれる方の家の庭にもよく建てられていることをよく目にします。

お寺であればより多く見られる姿ですが、「新調したモノ」であるイメージが付きまといます。

 

ところがこちらの二つの層塔は復元とはいうものの、オリジナル部位を残していて、一つの方には創建を推す年代まで記されています。

 

二つ並んだ層塔は昔からの伝承が残っていて、かつてあった馬町の名から「馬町十三重塔」と呼ばれています。

現在は国立博物館北西のレストラン前、豊国神社側壁と大仏前交差点からの道路が交わるコーナーに立っています。

元々は馬町(渋谷通東大路から東)に南北並んであったもので佐藤継信・忠信の塔という伝承があります。

この件は江戸時代の地図にも明記されるほどの有名な塔だったとのことで、こちらのブログでもお馴染みというか何度かその名を紹介させていただいている石塔美術の権威、川勝政太郎氏による復元作業が為されているとのこと。

 

昭和15年当時は半壊状態だったそうです。その後大阪のどちらかに渡ったようで流転の結果、昭和46年にこの博物館に寄託されています。展示場所も変更があって今はこの地の片隅。

博物館に訪れた人たちもこの雄姿に気づかず、あるいは「新しめのモニュメント」との判断でその場を後にするというパターンが多いようです。

 

尚、佐藤兄弟は源義経配下として転戦しています。兄は屋島で戦死、弟は義経追討の令が出てから義経とはぐれて追っ手を前に自害しています。

 

川勝氏によれば

「旧南塔の方が少し低く約570㎝。両塔とも初重軸部の上端に深さ18㎝の円形納入孔があり、小さな銅製・木製の仏像また、五輪塔、多宝塔などがおさめられていた」

「南塔の基礎に永仁三年(1295)二月廿日立之 願主法西」と刻印があります。

 

最後の画像は大仏交番から方広寺に向かう通。塀の向こうにこの塔があります。