「関ケ原」8月封切     本日もボヤキ・・・ 人色々

NHKブラタモリの清水寺のロケはさすがに早朝でしたね。

あの土産物屋のシャッターの降りた様子と納品車の行き交いは午前6時代後半を推測しました。

常時観光客で溢れかえっている場所ですので、先週の予告を見て、そこのところ「さてどうする?」と思ったものでしたがたしか7時以降は車両の進入はできなかったと思います。

予告では来週は祇園とのことでしたが、京都シリーズは身近な場所ということもあってその番組も楽しみの一つ。

 

ロケといえば昨日中日新聞朝刊の一面を世話人さんにお持ちいただきましたがそれには御本山真宗本廟(東本願寺)の大寝殿での撮影の一コマについて報じられていました。

伏見城での様子を見立ててのロケだそうです。

あの場所なら一般参拝客が入れない場所ですので撮影はしやすいかも知れません。

 

映画は石田三成にスポットをあてたものですが、その作品のロケ地として東本願寺が採用されたこと、これは三成をイラつかせた教如上人を祖とする寺ですので、ちょっとした皮肉を感じました。

 

日々テキトーな事をボヤいているのも案外健康のもとかもしれませんが、本日は今一つ余計にボヤきたくなった件があります。

 

「花まつり」という法縁については相良仏教会が主催していて今回は持ち回りで拙寺が会場になっているというところは既にお知らせしている通りです。

この法縁は同時に仏教会の運営資金の懇志を御協力者にお願いし、その懇志1件300円を各組長さんにお持ちいただくことになっています。

 

その資金の1/3は静岡護国神社の戦没者慰霊式への懇志として奉納することが決まっています。残りの2/3から地元開催の法要式典の維持費(海開きに伴う海洋遭難者へのお悔やみ等)となります。そして相良の老人ホームへの慰問法要と洗剤の差し入れ、障害者施設への寄進が含まれていますが最近ことに「私は協力しない」と「ハッキリ物申す」方が増えています。

その最大理由が「私は仏教徒ではないから」なのでした。

 

まぁそんな理由は何にせよ、「払わないものは払わない」の主張はこれまた自由であって私如きものが口を挟む余地はありませんね。今回よく耳にしました。

中には夜になってから電話がかかってきて、やっぱお釈迦さんのお札なんて「イラネ」から「おカネ返して」という方もいらっしゃいました(懇志の引き換えにお釈迦さんのお札をお渡しすることになっています)。

 

そもそも拙寺もそうですが真宗の門徒さんであれば「宗旨が違う」ということは当然で(阿弥陀仏一仏 一向専念無量寿仏)あって「要らない」といえば「要らない」のではありますが、私ども檀家さんにあってその手の事を聞いた事がありません。

ただのお印のようなものですから。

 

しかし、よ~く考えてみると少々「?」という部分が大いに沸き起こります。

そもそもハッキリ言ってこの企画(花まつり)はどちらのお寺さんも結構負担になっていることは確かです。

会場ともなれば前日からの用意で疲れ具合も半端がないところ多々ありますね。

 

そんな中、微力とはいえ寺が地域の「弱いところ」に顔を出す努力をし、町に少しでも活気を取り戻そうと集まっている活動ですが、このような宗旨を超えた横の繋がりのある地域はそうはありませんね。その日も「大事にしていきたいね」と一同語っていたところでした。

 

そこへ来て「仏教徒でない」を理由とした旗印を大壇上に掲げて(私にはそう思います)「300円のお付き合い」ができないという意味付けは不可解で仕方がありません。

 

そもそも神社主催の戦没者慰霊式典への奉納資金のお願いも兼ねていますので、仏教徒に限っていませんし他宗派であったとしても、戦争で亡くなった方、老人施設にお世話になった方、海での遭難者への敬意儀礼と供物提供は不可欠であり、それらへの沸き上がる「今生かされている私たち」の謝意と反省を大切にすることもしかりですね。

 

それらのことごとをたまたま私ども相良仏教会が取りまとめて運営していこうと手を挙げて皆さんにご依頼しようというのがその「300円」なのでした。

その一旦納めてしまった金子を是が非でも取り戻そうとする労力には畏れ多いことでむしろ感服。

 

しかし、私には到底真似ができないことです。恵まれ過ぎた境遇にあってそういう(些細な?)ことに「どうでもいい」という感覚になっているとしたらイケませんが・・・。

それ以上に社会が「そんなことはどうでもいい」という傾向になっているのか、寺がそういったコミュニティをけん引する能力が欠落していったのか・・・悩むところ。

 

朝から小雨交じりで出足の鈍い中、何とかお昼頃に発せられた大雨警報(実際はそれほどでもありませんでした)まで天気の方はギリギリのところでセーフだった感がありましたが、やはり金額を集計してみると現状前回の拙寺主催の会計よりも22%ダウン。

前年度からは17%ダウンという気持ちが悪くなるような数字を見せつけられています。

 

「仏教離れ」という声を聞くようになって久しいですが、何かすえ恐ろしさを感じています。

本日以降の動向(昨日来られなかった組長さん)も気がかりですが、「それならみんなやめちまえ!!」の声が出て来るかもしれません。その手の無茶な運びは私特有ではありますが・・・

何故か私の担当の法要は集まりが悪いのか、対前年割れとなって心苦しい限りです。

 

①中日新聞の記事、左側の「司法権」についての疑問もなるほどです。三権分立など名ばかり。

司法判断が行政寄りであることは今に始まったことではありませんが。要は「国民目線ではない」ということ。

そんな国は珍しい。 

それなのに選挙の時の抱き合わせの最高裁弾劾にみんな〇をつけて投票している不思議、「あるある」。

②は小雨で自家用車の進入が多かった境内。

④は風もなく蒸し暑さもあって障子は取り外して開放しました。ストーブなど燃料満載で用意をしていましたがコレだけはあてが外れてよかったです。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (日曜日, 09 4月 2017 17:08)

    心が貧しくなってきています。
    世の中は厳しいのです。
    仕事は安いところへ流れます。入札が多くなってきました。
    落とせればいいがダメなときは心が落ち込みます。
    私のところばかりが落としていては他のところが困るでしょう。
    でも落としたいのです。そうなれば厳しくなるのです。
    それが世の中です。
    氏子もかなり厳しいようです。(今年は氏子総代の役割です。)
    格差が開き、その分、心が寂しくなったのです。
    心が丸く哀れみを持って仕事をすれば生きていけません。(大げさですが)
    独自の技術を持ち他に競争者がいなければいいのですが
    そんなことは希ですね。
    阿弥陀如来にすがってばかりとは行きません。(すがりたいけど)
    ダメな時は、阿弥陀様が私にかけた試練だと思うことにします。
    商売とは厳しい物です。商店の将来を考えると気が重くなります。
    それでも「あがいて」いるのです。
    たかが300円でもそんな人はそれだけ厳しい生活(貧しい心の持ち主)の
    人だと思って諦めてください。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 09 4月 2017 19:24)

    ありがとうございます。
    やっぱり私はぬるま湯に浸かっているということでしょうね。
    寺の中に籠っていると、外の人たちが考える「300円」に大きな幅があった
    ことが気づけずにいたようです。
    大げさに言えば嫌悪を越して憎悪のレベルに達している方もいらっしゃるような
    雰囲気。
    いつもは檀家さん主体の法縁で「ご住職・・・」などと呼ばれまた、心地よい言葉で
    励まされている身としては今回の「数字」の現実と世間の人々の動向にショックを
    受けました。
    この程度で驚いているようではまだまだ「あまちゃん」ですね。

    めげずに一所懸命にそしてたんたんと与えられた(阿弥陀さんに)ことを励みます。