残ったのは胡宮神社  道路開発でヤラれる如実例

気温は低くないものの雨→晴れの猫の目天気の一日。

日没から風が強く吹きだして外はビュービュー言ってます。

また嫌な感じですね。

風が吹くと「枕を高くして眠れない」といったところでしょうか。本格的な春を導くにはこういった不順も忍んでいかなくてはなりません。

 

昼過ぎに向かった叔母のいる池新田方向はちょっと寄り道して御前崎灯台経由。

大平洋の状況は無茶苦茶で、車は潮だらけ。この道の通過は後悔しました。

帰宅してしっかりと洗車しました。

周辺運行用のその軽自動車は3月に車検を迎えることになりますが、ついに9万キロになります。あと2年走ってもらいましょう。

以下画像は御前崎灯台の下から。

さて、「お多賀さん」はじめ名神高速道路多賀SAの色々を記しましたが、私はこの多賀について1日程度の短期で廻ったワケでは勿論ありません。

しかしこの「多賀」は結構に見どころがあるわけで、これまでその高速道路SA上にある敏満寺城址の遺構からお多賀さんそして色々・・・を記しましたが、ハッキリ言ってあのSAは特異中の特異といってもイイくらいの絶妙な立地を提供しています。

 

このSAは「名所」の中心にありますので前にも記していますが、そちらに駐車してそのまま周辺ブラついてまたはハイキング気分で戻るなどという荒業もできる場所です。

こちらを通過するその「ついで」に立ち寄ることも可ですね。

 

何よりこのSAには「レストイン多賀」なる宿泊施設まであることもその活用価値についてを付け加えなくてはなりません。

歴史遺構を歩くという意味では便利この上ない立地ということになります。私もいつかはその宿泊施設を利用しようと思っています。

 

お多賀さんこと多賀神社は古くから庶民に崇敬されてきた神社ですが勿論当初は「神仏習合」時代から。

今のような神社のカタチは毎度ブログでも記していますように明治維新からと新しいものですね。

 

そういえば昨日皇太子が誕生日の挨拶で「国民を思い、祈る」の談、後奈良天皇(在位1526~57年)を引き合いに出して、『飢饉や疫病の流行に苦しむ人々のために「般若心経」を書写して寺社に納めた』と述べていましたが、この発言に私は「とてもいいな」と思いました。

日本史というものにどしどし触れていただき、明治維新の意図である「神道一本やり」を修正していただきたいと思います。

昔から天皇家も摂関家も「氏神を祀る神社とこれぞと思う寺」との両方を崇敬したものですからね。

 

そして古い時代の多賀は「多賀神社+社内神宮寺」、そして表記の「胡宮(このみや)神社+敏満寺」はセットで参拝されてきたという歴史があります。

胡宮神社は神社として残り敏満寺は地名として残ったものの寺としては消滅したのでした。

 

多賀神社の参道に比して胡宮神社周辺は青龍山(333m)の西麓にあるということもあって、参拝者はまばらです。

特に土産物屋などは見えませんね。

 

ただしその二つの神社は江戸期あたりから「どっちが先か、どっちが本でどっちが末か」で争いが絶えなかったとも聞きます。

私にとってどっちでもOKなのではありますが、趣味的には断トツで敏満寺胡宮神社の方に肩入れします。

実際、かつての多賀神社滞留時間を5分程度でしたがこちら青龍山全体では3時間はかけたと思います。

あくまでも私の感覚ですが1-100くらいの違いと言った方がいいかも知れません。

 

こちらの神社には表参道の鳥居と裏参道の鳥居がありますが、この裏参道の鳥居の前には名神高速道路が走っています。

昨日記した「大門池」からの参道ということになります。

その大門とはどこにあるのか・・・いやあったのか・・・

それが仰天のこの高速道路の真下ということです。

 

敏満寺のブログにて「寺にとって思いがけぬ災難ベスト4」として道路建設をあげていましたが、コレを見ればどなたであっても

「結構無茶してる」と思われるのではないでしょうか。

 

焼失した仁王門の上に道路の高架を渡しているのですが、基盤が残存しているのです。

駿府城にしろ相良城にしろその他、歴史的建造物の復元に際して、図面が残っていたとしても「礎石が見当たらない」ということは復元作業に於いて致命的欠落で、皆さんそのことで二の足を踏んでいるのですよね。

 

ところがどうでしょうこちらからはその学術的裏付けの取れる礎石が出てきているのです。

この様子を写真におさめていて、やはり「なんてこった」と思わずに苦笑い。

これでは仁王門という歴史資産の復元を最初から放棄しているということですからね。

 

少なくとも大門・・・仁王門の方が奥に見える鳥居よりも「先」(昔)にあったことは確かでしょう(場所はこちら)。