百済寺が信長に焼かれたのは・・・鯰江城と住宅図

まあ、いろいろ受け取り方はありますね。

昨日も例の件、放映がありました。

「除夜の鐘へのクレーム」についてですが、今やそれをやめて時間を変更した私へのクレームも結構届いています。

これに対するメールや電話があるというのも驚き。

 

有難くも励ましの如く、中には「こっちから連絡してもイイのでクレーマーの正体を明かせ」風のものまであったりします。

 

異口同音に「除夜の鐘」は「日本の文化なのだから」という声を強く仰ります。しかしちょっだけ触れさせていただきましょう。

 

考えてみるに、世の中のお寺のうちで梵鐘がかかっている寺は少数派なんですね。

当地「相良仏教会」寺院数11カ寺でいえば3カ寺のみですから。全国的に言ってもそんな割合かもしれません。その段階で「除夜の鐘は当然の文化」であるとは言い切れないような感じ・・・

 

それはブログでも何度か記していますようにあの悪法「金属類回収令」が原因でしょう。

資源不足の国が「戦争を始めるとこうなる」という部分を見せつけたのではありますが、日本国内で目に付いた利用価値の少ない金属を片っ端から集めて鉄砲やら弾やらの材料としようとした法制です。

これは家庭内御内佛から寺院内の金属製仏具をもその対象になりました。

 

文化財クラスのものは例外的に対象から外されたようですが、鐘類は天正時代あたりのものまで供出させられたそうです。

よって今お寺に掛かっている鐘は・・・

①重文クラスの貴重なモノ

②寺院関係者に当時実力者がいて供出を免れた

③鐘を隠して供出に応じなかった

④戦後に鋳造された

ですね。

③はうまくやれれば当然の如くできたといいます。

いくらお上から「出せ」といわれて家にあるすべての金属類を供出することなどは稀だったでしょう。

拙寺も天正時代の喚鐘や槍、刀類はお婆さんが隠したといいます。

 

拙寺の梵鐘(隠したくても隠せない・・・)も「大八車に載せられて」引かれて(拙寺13代目の祖父が涙ながらにお念仏して見送ったといいます)、溶鉱炉の中に納まってしまったのですが、それから再鋳造されるまでの十余年の間は「除夜の鐘」など、あろうはずもありませんね。その期間の文化の継承についてはどうだれが責を負うのでしょうか。

ちなみにその梵鐘は今のモノよりも「深く響き渡るイイ音だった」(叔母)そうです。

 

よってお上のお達しでその「除夜の鐘」を奪ったという歴史があったことを知ることなしに「文化なのだからそれをやめるのはけしからん」などと仰られるのはちょっと・・・という気持ちにもなります・・・。

 

拙寺の場合はたまたま檀家さんの理解と運動によって昭和三十年に再建がかなったからこそ今の梵鐘の存在があるワケで、その時「鐘は不要である」との判断がなされれば今の状態は無かったのですから。

 

さて百済寺に関しては何度か記してきましたが(12/7 11/28   

10/26 10/25 10/24)、あの寺はやはり見方を変えれば城郭というくくりでもいいかも知れません。

「日本城郭大系11」にはその掲載は見られませんが、あの「江州南北諸士帳(愛知郡)には

『百斎(ママ)寺 宮木右兵衛 百斎(ママ)寺北坂本 井関源三郎  井関源四郎』の名があります。

「百済寺北坂本」とはちょうど百済寺の北側に「北坂」という地名や「坂本神社」がありますのでこのあたりにも派生した城館あるいは平時の館があったことを示唆しています。

 

その百済寺の一番の災難はなんといっても信長の手による(焼き討ち)仇ですね。

拙寺の鐘楼ではありませんが、こちらから安土城へ寺院あるいは郭を構成する巨石を運び出したという件は有名なお話でした(天正元年1573)。

 

この件は信長方に言わせれば(信長公記)・・・

 

『是より直に百済寺へ御出て、ニ三日逗留これあり。

鯰江の城に佐々木右衛門督盾籠らる。

攻衆人数佐久間右衛門尉、蒲生右兵衛大輔、丹羽五郎左衛門尉、柴田修理亮仰付けられ、四方より取詰め付城させられ候。

近年鯰江の城百済寺より持続け、一揆同意たるの由聞食し及ばれ、四月十一日、百済寺当塔伽藍坊舎仏閣悉く灰燼となる。』

 

鯰江城の支援に百済寺と一向宗がまわっていたことがうかがえます。

永禄十一年(1568)の観音寺城の戦いで織田信長に敗れた六角(佐々木)義賢と義治(義弼)の父子は甲賀郡の石部城に引いたあと歴史上から姿を消すような雰囲気が漂っていますが、実はその城からも脱出して、愛知郡の鯰江満介貞景の鯰江城(場所はここ)に入って再興を目論みます。

ここで江州佐々木南北諸士帳を紐解けば

 

鯰江城主    佐々木箕作義賢男    箕作右衛門督義弼

中戸        佐々木末 随兵    鯰江満介

中戸        佐々木末 随兵    鯰江又八郎

中戸        佐々木末 随兵    鯰江美濃守

 

とあります。

城は愛知川右岸の段丘上にあったといいます。今はまったく面影はなしですが・・・。

 

「近江愛知川郡志」掲載の城跡図によれば、『南に比高7m近くの段丘壁を控えた愛知川を見下ろす位置に東西北の三方を堀で囲んだ約半町域に本丸を持ちその北西約50mには変形六角形の堀と土塁に囲まれた御殿屋敷がある』(城郭大系)と。物見櫓も3か所ほどあったようです。

これは鯰江満介が佐々木六角再興に協調して信長勢からの防御のために増築したであろうという史料ですが、信長配下の前記4名の諸将に攻めさせて落城させています。結構に信長の波状攻撃に持ちこたえたといいますので、やはり城というものの攻めずらさというものは山城の高さや規模の大きさよりも周辺立地(河川湖沼による湿地帯と高い擁壁に堀の深さ)、むしろコンパクトな方が守りやすいことがわかります。まぁ速攻性の力攻めで相手が来たときのみの対応ですが。時間を掛けて持久戦に持ち込まれたら落城の憂き目はまちがいないところですが。

 

その際、百済寺はこの鯰江城の支援をしたという咎により全山信長の手で焼き払われたといわれています。

この城が近江佐々木氏最後の城ということでしょう。

 

私がもっともここで感動したのは住宅掲示板です。近江にはつきものでどこに行ってもありますから、私は必ず見回すクセがあります。

大坂にも鯰江という地名があってその姓を名乗る家は散見されるようですが、これは秀吉配下となった鯰江満介貞景の子の定春の家系といいます。

ところがこの掲示板を見て驚かされました。

ざっと見て「鯰江」さんだらけなのですね。珍しい名前ですのでスグわかります。「城」さんとあわせて「鯰江城」・・・デキすぎです。

 

先般も「河東出身者」さんがこちらで仰っていたように敵方に蹂躙された土地に住んでいた者はその土地を捨てて心機一転他所で姓を変えるなどして新天地で生活を始めるものですが、ここは例外なのでしょうかね。

これはレアケース。まったくの驚きでした。

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (土曜日, 10 12月 2016 18:40)


    横地さんも新野さんも土方さんも笹瀬さんも 名前の地には多く残っていませんので、迫害されると集団で逃げるか、名前を変えるのが基本とおもっていました。

    鯰江さんについては私もびっくりです。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 10 12月 2016 18:53)

    ありがとうございます。鯰江さんは日本全国そうは多くない姓ですが、その殆どが
    滋賀県と大阪府ですね。姓氏に興味ある者としては驚きでした。