木村重成の首 御武運あるなし人生色々 宗安寺

また早朝よりあのサイレンを聞いてしまいました。

当地ではなくテレビモニターからですが・・・津波で死ぬのも生きるも「運」にまかせるしかないのでしょうかね。

ただし原発の爆発は「運」ではないですね。「政治」です。

 

兜と首に討ち取られた「その時」を想定して、兜の緒を切ったり空焚きをしていたといわれる木村重成。

その所作は首実検の際の家康に「天晴れ」と言わしめたといわれますが、先日も記しましたように「空焚き」はよほどの執拗さでもって事前に兜と自身に浴びなければそのほのかな香りは他者に向けて感じるまでには至らないと思いますし、夏の陣という季節がら汗だくになった死地騒乱のあとに討ち取られ、ある程度の時間が経過している「首」にそのような作用を感じるなど、あったとすれば空焚きではなくもっと違う「芳香剤」のようなものの使用の方が説得力があります。

 

「空焚き」による移り香の期待はあくまでも「ほのか」であって「野戦」によって討ち取られた「兜首」が喧噪の陣内に大量に集められてくる中、そのような「効果」が果たして現実的かまさに首を傾げるところでもありました。

 

さて、首実検後の彼の首は何方へ・・・

討ち取られ、あるいは武運儚く尽き果てた事を察して「もはやこれまで」と自刃した武将はまず100%首は胴体と離れることとなります。そのシチュエーションには各あって、組み伏せられて相手に討ち取られるものから、名もない雑兵に討たれることへの不遇を恥と忌避し、事前に配下の者に介錯を頼んで首(みしるし)のみをどちらかに隠したり運ばせることを覚悟しなくてはなりません。中には潔く余多の者共に向かって「この首を持って手柄としろ」などの伝承もあったりします。

 

三尺高い木の上」の場合、これは暗黙の了解があったのかもしれませんが門番が外れた隙に夜間に縁者等が盗み出して墓を建てることもありました(木曽義仲等・・・)。

 

ということで「墓」には厳密に銅塚・首塚の他、故人の持ち物や髻などを本人に代って供養するための供養塔を建てました。

中には有名人の場合、突飛な場所に供養塔の類が建てられていたりしますが・・・。

 

また「菩提を弔う」人にもいろいろあって討ち取った者によってその首の取扱い方も違ってきます。

 

小説「若江堤・・」にも取り上げられていましたが「安藤長三郎」と「庵原助右衛門」の登場がありました。この二人の名を見てどちらも「三河から駿河」をイメージするのは静岡人としては当然でしょうね。

夏の陣の八尾・若江では両人とも井伊直孝配下での戦働きでしたが、井伊直孝の出生も駿河を縁としていましたね。

「庵原助右衛門」の「庵原」は地名の庵原の通り、今川-武田-徳川の流浪を思わせます。

それでは司馬遼太郎の小説から。

庵原は70歳を超えての達観の境地を窺わせ、「ひじに数珠をかけ、念仏をとなえながら」の戦場の指揮とあります。

彼が若江村に入ってすぐ馬上から見かけた武者(木村重成)は性根尽き果てて疲労困憊のボロボロの躰、槍を数度合わせて動かなくなったといいます。

老体の庵原は彼を見逃すつもりで立ち去ろうとしたとき、「安藤長三郎」が声をかけて「本日一級の首もえておりませんので・・・その首をください」と。庵原は「ほしければ、とるがよい」でした。

 

その首のおかげで当初五百石、のち+五百石の禄を得て安藤家は彦根藩士として代々井伊家に仕えています。

先日は異常な執念で家を再興した山口家について記しましたが、「安藤長三郎」の見栄も外聞もない「首ください」というのも凄いものがあります。

ただしその木村首に関しては一旦は大坂市中の「三尺高い」場所にあがったことは違いないでしょうが、安藤長三郎は密かに持ち出して、彦根の安藤家墓域内に懇ろに葬ったといいます。

 

「+五百石」の理由は首実検によってかの「木村重成の首」が判明するに至っての「褒美として少ない」とゴネたためですが、それを諭したといわれる安藤帯刀の談にこういった件がありました。

 

「惣じて総大将の討たたるは、敗軍して士卒の離れたときである。これを討ち取ったところで、さのみ武辺のすぐれたることにはならぬ」でした。

「庵原助右衛門」の首譲りの件は知れ渡ることになっていたのか、安藤長三郎自体もさしての戦働きをしていなかったことを暗に承知しているような言葉でした。

「+五百石」というのも井伊家の温情かと。

武運のある者ない者、人生いろいろです。

 

この件によって彦根藩に引き立てられた安藤家の墓所は彦根城にほど近い宗安寺にあります(場所はここ)。

浄土宗のお寺で六字の名号が光ります。

その安藤家の墓域内に悠然と佇む木村重成の五輪塔の存在から安藤家の気持ちが伝わってきます。