字の木は楠   愛荘町平居の楠神氏  平居弾正の城

昨晩飛び込んできた、ノーベル文学賞の受賞は私どもオヤジ世代の人には驚きながらも喜んだ方は多かったでしょうね。

つい「奥の墓道氏」にメールしてしまいました。

何せ中・高時代のラジオから聞こえていたもので「Knockin On Heavens Door」などは先に逝った同級生のSクンへ(勝手に)送るテーマ曲のようなものでしたので。

そういった世代特有の「ミニ反社会」と皮肉への指向が芽生えたのもその時代でした。

 

彼の名を聞いて「今日は平和賞?」と一瞬間聞き返すほどでしたが、「詩」と言えばやはり文学ですね。

まぁ嬉しいのは自分がただ「よく知っている人」ということなのでしょうが。とにかく色々聞き直してながら今コレを記しています。

 

近江を歩いて野村町でのローカルな触れあいについて記しましたがこちらでも同様のことがありました。

東近江の五箇荘から愛知川を渡って愛荘町の字の「平居」に入る寸前に「字の木は楠」という語が目に入りました。

「何のこと?」一見その平地を見回してもその手の大木は見当たりません。市町村に各「花鳥草木」を指定することは普通にありますが「字の木」の意味が不明でした。

 

まぁそんなこともあるのだろうと深く考えずに通過。

すると民家の前に小さ目ながら石柱が1本立っているのが視界に入ってスグ近くの公民館前の空き地に車を停めました。

日ごろ鍛えた墓石・石塔を選別する「静態視力」のおかげです。

のんびり走っていますし、交通量もない場所ですので臨機が利きますね(場所はここ)。

 

という事で付近探索と住人からの情報収集へ。

「平居城?」聞いた事もない名でこれこそ超マイナーの部類でしょう。

字での第一発見者にその石柱について聞けば、その城址とは石柱の背後あたりのことで、城主は「平居弾正」と。

会う人皆からその「平居弾正」なる名を告げられましたので、平居の古くからの歴史的著名人なのでしょう。

 

大津瀬田の南(旧栗田郡)には「石居」という地名がありますが、(全国的に見てもこの苗字は滋賀県に多いので出自は「近江」といっていいのかも)現在は「いしい」の音はよく耳にしていますがこれはまず「石井」の方であって「石居」は結構珍しいものがありますね。それと同様「平居」も東近江に偏っていることは不思議です。

 

ちなみにこれまで私の周辺でお目にかかったことはありません。本当はこの「居」も「井」も元は同じでしょうね。

名字の銘々の最初というものは基本「居る場所」の名のりですから。ようは「いしい」とは「石」あるいは「岩」のある場所か、岩盤のように固い土地を意味していたかと思います。田としては適していないという事なのかも知れません。

そして「平居」は起伏のないまっ平な土地で田園に適した土地を想像します。

 

それから考えると私の「今井」の発祥は「今いる場所?」ですか。ちょいとふざけてます。私はやはりこんこんと湧き出ずる井戸のイメージがイイですね。

 

車を停めた公民館前の住宅地図をざっと見て、城址から見て鬼門方向に「生蓮寺」という寺があったのを確認していましたので、城址と城主のことをもっと知りたいので・・・というと、いつもの「あなたはどなた?」と逆質問されてしまいました。

こうこう・・・と説明すると、その方は「区長の楠神(くすかみ)某さんのところへ行ってくれ」と。

 

不在だったらどうするのだろうと思いつつ、指定されたお家を訪問。やはり不在でした。今一度先ほどの方に聞きに行くという紛らわしさを省き、「申し訳ない・・・」とは思いつつも直接寺に向かいました。

「郷に入れば郷に従え」という言葉もありますが・・・通常こういう場合は誰の許可も必要ないという環境にいますし、それほど遠い場所ではありませんから。

 

お寺の境内に入ってみれば、感激でした。

南北朝期を推測できる宝篋印塔が。隣には半分くらいの高さの小振りの宝篋印塔に五輪塔の宝珠がゴロゴロ。

悪くない景色です。

カメラを向けていると隣家の奥さんと目が会いましたのでご挨拶。色々雑談にお付き合いいただきました。というか、やはり地域の目なのでしょうね。見知らぬ人がウロ付けば目立つのは当然ですが。

 

まず、奥さんの口から「この宝篋印塔は」と奇特な言葉。まずその言葉は滅多に聞くことはできません。

各研究者等がこちらを目的に現われるとのことでした。

石居弾正という人とイメージ的にこの墓の持ち主がリンクしているようですね。

そしてこちらを歩いた所感等投げかけさせていただきました。

 

勿論区長の「楠神」氏宅に伺って不在だったことを告げたことは当然のこと。ところで「楠上という表札が多いですね」というと「ここいらは殆ど楠神」との返答。道理で区長の名をフルネームで念を押されて告げられたことがわかりました。最後にひょっとして奥さんも「楠神さん?」と聞けば「勿論!」と。

そこで最初の疑問「字の木」の意味がわかりました。

 

大きい方の宝篋印塔(私の身長程度)はバランスもよく塔身はブロック塀の側が見えませんが4面に梵字を刻んでいるようです。

反花座(かえりばなざ)簡略一体型の基盤の格狭間(こうさま)に蓮が描かれているのはこの地方のスタンダードでしょうか。

一石ですが隅飾(すみかざり)の直立は「鎌倉後期から・・・」まで遡るかも知れません。隅飾に梵字が彫られているのも特筆。

このような宝篋印塔があることなどこちらに来て初めて知りました。偶然見つけた石塔に感謝し一目惚れて、ちょっぴり難しい専門の語を並べてしまいました。

2つの宝篋印塔と並ぶ板碑も珍しいものでしょうね。詳細不明。

 

平居氏なる土豪、あるいは国人領主クラスの人の所在は推測するに他の近江の土豪たちと同様六角氏-京極氏の対立と浅井の頭角、そして織田の侵攻という騒乱を絵で描いたような場所で、意外にその名が見えて来ないのは近隣にそれよりも名の有る国人領主の目賀田氏があることから早いうちに(鎌倉後期~南北朝あたり)に滅ぼされ一族が周辺に散らばっていったという可能性もあります。

 

「弾正」なる官位らしき称号からストレートに受け取ればどちらかの配下の「警護役・警察」だったというようなことは想像できますが、こちらは結構形だけのものや自称したりするほどのものですのであまりアテになりません。

いずれにせよ詳細不明です。住宅地になっていますのでこじつけることはできますが城郭としての遺構らしきものはほとんどゼロでした。

 

よって平居町に平居の姓は見当たりません。

しかし「神官」の名を思わせる「楠神」の名が多く残ることは何か歴史の匂いが残る場所でもありました。