近江商人の原流はここ? 保内  今堀日吉神社

牧之原の、それもご近所の刃傷事件が全国のお茶の間に流れてしまいましたね。昨日早朝のことでした。夜が明けてから上空をヘリが飛び交っていました。

狭い町で現場は100%特定できる地、夕刻には物見渋滞など発生する始末。

この辺りでは「その手の事件は無いもの」とずっと確信していたところでしたのでかなりの驚きでした。

 

さて、布施姓発祥の布施町界隈を色々想像をめぐらしながら歩きました。それが事実(布施氏のご先祖がこの町の出自)だとすれば少しは布施町に布施姓が残っていてもいいのかという気持ちもあり探索を試みましたがやはりそれは見かけないのです。

同じ今の東近江市内には40件弱の「布施」を名のる家がある中(2012年版電話帳)肝心の布施町にはゼロのようなのです。

 

昨日記しましたように国人領主布施山城の殿さま布施氏は信長侵攻のあと当地より離散しています。

その際一族郎党ともどもこの地を去ったというのが推測しうるところでしょう。

まぁ古くから六角氏家臣団の一画として領国の経営を任され、長くその政(まつりごと)に関わってきた家が主たる六角氏が去り自らも一旦は交戦して(信長と)開城ということになれば、さすがにこれまで通りの形態を保つことは無理だとは思います。

 

やはり相良の野村氏の出自を推する現長浜市の野村町を歩いてみても1件も「野村姓」は見当たりませんでしたね。

ただし木之元町の布施には「布施姓」が7件ほどありますのでそのことは今のところ「なぜ?」ではなく「たまたま」と思うしかないです。

そもそも「苗字」そのものが「いい加減」と言ってしまえばやはりそうなのですし、それを言えば「それまで」のことですから・・・。

 

東近江市内の40件弱の布施姓についてその30件近くが五箇荘町に集まっていることから私の「いい加減」な推測(布施の布施氏は五箇荘に向かって近江商人として全国に広がった)を記しましたが、いわゆる「近江商人」の範疇は五箇荘だけではありませんので、その移動についての推測も「たまたま」というしかありません。

 

もっとも物流の要である「水運」は不可欠ですからその辺りをこじつけるしかないでしょう。

ちなみな商売の基本は「物流と人の動き」ですから街道筋と大きな川の近くということになります。

 

さて、「八日市」はそもそも「市が立つ場所」の意と記しましたが商売に関わる文書が多数残る場所が布施町に隣接した場所に残ります。どれもこれも一級資料だといいます。

それが今福町(蛇溝町駅)の日吉神社です(場所はここ)。

 

六角定頼が観音寺城の下に史上初といわれる楽市楽座を開設したことが初見といいますがそれらの「商人」集めと「市」運営のノウハウは為政者の差配の許で行われたものです。

要は周辺のその筋のエキスパートを強制的に招きつつ他の「市」の開設を規制しながら「城下に集約」するというやり方でこれは当然に信長の安土楽市楽座のお手本になったことは自明です。

城下に人を集め華やかにするにはもってこいのやり方でした。

税収も上がります。

 

その「エキスパート=商人」とは何かといえばそれは特に日本史上初期の頃は「農民」といって間違いのないところ。

今でいえば「道の駅」で並ぶ「地場産品」と同じでしょう。

そしてそれ以後それより「専業の商人」が発達していったのです。

 

戦国期の専業化は「農民→半農半兵→兵士」の如くまた、商工業の専業化が進んでいった時代です。

作ったものを売るには市が必要で、初期は常設店舗などありませんから、京都に「立売通」の名があるように道や河原で催される市に立つ(立売)というのが売り方。

以降状態化も進み店舗等は昭和初期に見られたような神社仏閣の門前の「棚店」のような簡易なものが市に並んだことが始まりでしょうね。

 

当時土地の単位としての呼び名に「保」というものがありますが、この今福町の日吉神社には当地の「保」について記された古文書が多く(1000弱)残っています(前述)。

 

もとは平安期に「得珍」という比叡山の僧(比叡山の荘園だったから)が愛知川からの取水工事を行い土地の開墾をしたことからこの「保」が「得珍保」(とくちんのほ)と呼ばれるようになったようです。

その「保」についての資料がここが近江商人の原形をうかがわせまた「商人たちの掟」の数々が残っているのです。

 

日吉神社にはその名の通り「保内商人」の中心地たる家屋址があります。

戦国初期まではその発展期であり六角氏が城下に楽市楽座を仕切るようになってからは新規制が施されて衰退を余儀されてしまったのでしょう。

為政者が城下地元で市を繁盛させたいところに近隣に市が立つことは避けたいですからね。

こういった事案から布施町の布施氏が五箇荘に移動して足掛かりとしたりあるいはこちらの「保」から各地方に分散していったことが考えられるのです。

コメントをお書きください

コメント: 6
  • #1

    野村幸一 (水曜日, 05 10月 2016 01:42)

    長浜に行かれたのですね(^.^)
    私も子育てがひと段落したら行ってみたいですね。なかなか名字発祥の地にそのまま定住者を見つけるのは難しいでしょうね。いて欲しい!という想いは強いのですが!

    今日、本家の当主への手紙を書きました。明日投函です。返事が来る事を期待して待ちます。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 05 10月 2016 08:14)

    ありがとうございました。
    先般京都の帰りに寄ってみました。
    その件明日のブログに記したいと思います。

  • #3

    野村幸一 (水曜日, 05 10月 2016 08:51)

    楽しみにしております。

    京都、学生時代の修学旅行では全く興味無かったのですが歳を重ねてくると京都行って古都を楽しみたい…と思います。

    古き良き時代の物が好きなのだと改めて思います(^.^)

  • #4

    野村幸一 (月曜日, 17 10月 2016 09:55)

    先日、本家へ出した手紙。そーろそろ何か返事来るかな?と思っておりますが…全く何も来ません(/ _ ; )

    何となく思うのは、墓碑を伊東へ移設した時に新しい暮石に建て直してるかもしれないです。

  • #5

    今井一光 (月曜日, 17 10月 2016 10:06)

    先方様のご都合もあるのでしょう。
    焦らず気長に構えるのも肝心と思われます。

  • #6

    野村幸一 (月曜日, 17 10月 2016 11:25)

    そうですね。気長に待ちたいと思います。