改宗之儀ハ何分御免可被 成瀬重俊  南紀徳川史

昨日はブラジルから叔父夫婦と娘2人が相良へ来訪。

相良「乃庄」にて釜飯を御馳走になりました。ブラジルからフランクフルト経由で気の遠くなるくらいの待ち時間の乗り継ぎを経てやってきたお客さんに支払いをいただいたことは誠に恐縮。御馳走しようとスタンバイしていたのですが・・・

 

ちょうどお昼頃から15時頃が台風16号の風雨のピークでした。

その頃は和歌山の田辺市を再上陸とあって、「もっと悪くなる前に」と早々にベースの浜松に帰っていきました。

ちなみに住んでいる場所は地震、台風は皆無。勿論津波無し。

火山はないが地熱温泉はあるとのこと。

日本発のニュースは自然災害のものばかりで、来て見てあらためてなるほどと思ったそう。またコパカバーナビーチは報じられているほど治安は悪くはないと。

 

しかし先日ブラジル人が車でサンパウロのファベーラ(スラム)に間違って入り込んだところ銃を持った連中に制止され、慌ててアクセルを踏んで逃げたら助手席の奥さんが撃たれて亡くなったという話をしていました。

何故間違って入り込んだか・・・ピザ屋をナビで探したところを誤入力したとのこと。ヤバい場所には行かなければイイといいますが・・・そんな話を聞けばやはりブラジルは遠い世界となりますね。

 

さて、台風が上陸した和歌山の田辺ですが、俄然行ってみたい場所の候補に急上昇しています。熊野の入口というところもありますが何分広大で事前調査も必要ですのでまだまだ先の話になりそうです。とりあえずは和歌山市内からですね。

 

何故に田辺かといえば、標記「南紀徳川史」の中にある成瀬重俊権兵衛の項、「移住田邉、正保三年(1646)没」とあったからです。

 

そもそもこの「南紀徳川史」の存在は先日渥美家伝来旗差物をお知らせいただいた「遠州 河東村出身者のブログ」さんからの紹介でしたが、目を凝らして見ると高天神城戦にて名を連ねた人々を推測する名がまたぞろ出て来るのです。「南紀徳川史」のうち第五冊~六冊の「名臣傳」に登場します(成瀬は第五冊)。

和歌山県立図書館の紹介文には

「徳川頼宣の紀州入国以来第14代徳川茂承が版籍奉還する270年余の和歌山藩の記録。旧藩主徳川茂承の命で明治21年から同31年にかけて編纂され、慶長7年~明治4年の記録をまとめています。歴代藩主の譜略言行、名臣、武術、方技、高僧などの各伝や職・禄・郡・財軍・法の諸制度・民政などを網羅した、近世紀州徳川家に関する史料集です。」とあります。

 

驚かされたのは「成瀬重俊権兵衛」なる人物に関して私は初見でした。いかに勉強不足というか、あらためて我が身の無知振りを知ったのですが、その家譜を拝見してそれが実に面白いのです。父が「成瀬虎蔵正重」とあります。

まさに昨日記した釋尼妙意の御主人で三方原で亡くなった「成瀬藤蔵正義」の名にそっくり。成瀬家系図にも出てこない名ですが、これはきっと藤蔵の弟か甥あたりと推測します。

 

藤蔵正義があの成瀬谷で討ち死にする際、「弟の正一に後の事を任せ正一は家康を浜松城まで御供した」までが通説でしたがその時さらにその親族らしき者、虎蔵正重が随伴していたということがわかりました。

 

戦となると名だたる個人名が出てきますが、その人にはたくさんの親族が同行していたということをあらためて思いました。

いわゆる「一族郎党」こぞって惣領のあとに続き、家の名をあげるために主君に尽くすわけで、その成瀬家の一族がそこに居たということが裏打ちできたような気持です。

 

纔(わずか)二 七騎御供ニテ濱松之御城へ」とあります。

「七人の侍」なるクロサワの映画があって以後ハリウッド映画の7人シリーズの走りとなりましたがそれよりもかなり前の史実としての「七人」であって何ともイカします。

そのうちの一人が私の知らなかった「成瀬虎蔵正重」でした。

 

その中で「一向宗門徒の気概と家康の許し」をあらためて確認いたしました。

昨日も記しました通り三河一向一揆以降の家康の「一向宗禁教」政策は流布され家臣団に改宗を迫っていったものの、筋金入りの一向宗門徒の中にはそれを表だって拒む者があったということですね。

それが標記の「改宗之儀ハ何分御免可被」です。

 

「渡邊半蔵 筧助太夫 一所に蒙御勘気ヲ 経数日御散(赦)免被成下」あの槍で有名な「渡邊半蔵」に「高天神崩れ」にも登場する「筧助太夫」と一緒に家康から「御勘気ヲ蒙って」放逐されたよう。

戦功の数々から捨てるに惜しいと思われたのでしょう、家康は数日経ってから許しました。

そこに再び家康が真宗から他宗に改宗するように指示するわけです。

 

ところがそこで彼らは「改宗之儀ハ何分御免可被」。

「改宗の儀は何分御免こうむりたく・・・」です。それにはまた家康は激高したでしょうね。「再ビ蒙御勘気」となって「遠州田中城に百五十石に留め置く」事になりますが、「宗門御改無御座 御勘気御赦免被成下帰参仕御奉公申上」ということですべてが収まってしまったことが記述されています。

 

一向衆門徒に対し宗旨の変更しないでもイイし「御勘気は御赦免」すべて水に流すという意ですね。

家康の施策として一貫性が無いといえばそうかも知れませんが、その宗教政策として一向宗へのあまりの強硬策は適当でなくスジは一応は通すものの許しという寛大さを見せてむしろその許容度の大きさを武器に人材を取り込んでいったのが家康の一向宗門徒との付き合い方だったのです。

 

関ケ原あたりでも顕如の長男教如(東西分流 東本願寺の始め)との親密がありました。

既に家康が一向宗門徒を脅威として捉えることは無くなっていたこともあるでしょう。

 

 

以下「南紀徳川史 第五冊 より抜粋」

成瀬重俊権兵衛

成瀬重俊、父曰虎蔵正重、年甫十六、仕東照公、賜禄七百石、数有戦功、三方原役、七従騎之一也、後以奉一向宗、興渡邊半蔵、筧助太夫

共被放、既而被釈、命使改宗不聴、再被放、後思其功、召還之、賜禄

百五十石、不復問其宗旨、子重俊為大須賀康高部下、後賜公為 安藤直次部下、賜禄弐百石、移住田邉、正保三年没

 

家譜

成瀬権兵衛重俊<成瀬正重実子惣領 生国三河>

父虎蔵正重ハ 十六歳之時ヨリ御知行七百石被下置 

権現様へ奉仕 数度御合戦之御供仕 遠州味方ケ原御一戦之砌

纔二 七騎御供ニテ濱松之御城へ 御入被遊候時 虎蔵モ其一騎にて御座候後<年月不詳> 新門徒宗ニ罷成候ニ付 渡邊半蔵

筧助太夫一所に蒙御勘気ヲ 経数日御散(赦)免被成下此度之御恩賞ニ改宗可仕旨 

上意御座候處 改宗之儀ハ何分御免可被 成下ト御願申上候得バ

再ビ蒙御勘気 其後於遠州田中<年月不知>御知行百五十石

被下置 宗門御改無御座 御勘気御赦免被成下帰参仕御奉公申上関ケ原御陣の節ヨリ大病相煩 大坂御陣ニ 三年前に相果申候

 

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (水曜日, 21 9月 2016 06:01)

    落合道次を調べていて、南紀徳川史に言及した記述があったのがきっかけで中身を確認すると高天神衆の記述の宝の山でした。

    新野親矩が亡くなった浜松城攻めに渡邊半蔵が参加していたことも初めて知りましたが(江間家に関する記述)、三河一揆の直後で忠誠心を試す意味もあったのではないかと推察しています。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 21 9月 2016 08:43)

    ありがとうございます。
    「南紀徳川史」は宝の山ですね。多くあげられた人物をそれぞれ
    あたれば仕事が手につかなくなりそうです。