小田原大久保家御縁なるも真宗寺院正恩寺

こう台風ばかりではまったくくさくささせられますね。

今年これまで上陸してきた台風の中ではコース的には正攻法。予想では九州から本州縦断コースです。

勢力は945hpaですのでこのまま維持されると先の台湾と中国を襲った台風に準ずるもので辛辣な傷を残す可能性があります。20日深夜早朝は前線が刺激されて静岡県内でもまたぞろ警報が出ています。居座る前線が今度の台風の案内役になるようで。今のところ当地も通過コースに入っています。

 

ということで昨日は午前中に晴れ間も覗かせましたので、恒例の植木鉢避難と本堂雨戸閉め。

ハイビスカスたちも長雨による日照不足に湿潤過多で元気が無くなっているところに「夜盗虫」の大発生で葉がボロボロになってしまいました。それが今一番に歯がゆいところです。

 

さて、以前記した鎌倉の成福寺の件(ちなみに伊豆の成福寺はこちら)、御質問をいただきました。

かなり前(20130829)のブログですが、私が記した「小田原北条の領内真宗禁止」よりも「真宗寺院は山間部に建立されること無く平地建立が多いため戦略上領内防衛上も好ましくない・・・」の件の出典についての確認でした。

 

こちらについては出典は特になく、当流における自負を遠回しに言う表現であり、また「禁止」という言葉が独り歩きすると思わぬ誤解を生じかねないという配慮から、後付けの如くそのように伝えおくことがあったと思います。

よってどなたかから聞き覚えた事を私が記したのではありますが、文書の出典を指摘することはできません。

 

真宗門徒のモットーは「平等施一切 同発菩提心」における一人一人を尊重する今でいう「平和主義」です。

ただその平等思想を踏みにじろうとする勢力には徹底抗戦してきた歴史があるのですが、それを為政者は「一揆」と呼んで恐れてきました。

領国統治にとって民が膝を曲げる対象のダブルスタンダード(縦割り型統治システムの頂点「殿さま」と阿弥陀仏を筆頭とした平等社会の融合)はあり得ないということです。

 

よってそれを「禁止」しようという動きがあるのは戦国期の領国形成を維持するうえではごく当然のことですので、本当はご指摘をいただきました「山間部ではなく平たん部建立」などいう為政者デメリットの推測までは記す必要は無かったのかも知れません。

 

真宗寺院の五つの正行についてさらっと記しましたがこれらの集大成が「報恩講」であり、上記の回りくどさは一言で「講」(寄合)であるということを暗に示唆せんがための表現なのです。この感覚は真宗寺院の特徴でもあります。

 

要は山岳寺院にありがちな山岳回峰行や滝行という形での仏との接し方ではありません。勿論お山の寺院の行の接し方等、各種あっていいもので評価のしようがありません。

 

そして真宗正行を代表する「聴聞」により仏と接するための「講」の開催は多人数が集まりやすい場所に限ります。

なにより山岳修行の場合、救われるのはその修行者のみであるのに対して、真宗的救いは「講」参加者多数ということと「行」そのものの取っつきやすさ「易行」(念仏)がウリなのでした。

それを強調するために山岳-平地という言葉を昔から使っていることも確かです。

ただし、それを露骨に出せば山岳寺院に失礼にあたりますのでなかなか口に出せないところなのでした。

 

拙寺も菊川の段平尾→相良大沢→相良本通り→波津と引っ越しを繰り返していますが、これは「平地へ平地へ・・・」の動きでした。やはり講の開催が主眼であったのでしょう。

治水事業が進み、稲作管理のしやすい土地へ民衆が山から移住していく過程に寺も内陸から平地へ降りてきたのです。

大沢から本通りへの引っ越しは徳川家康のお達しですが、これは「渡りに船」だったかも知れません。今考えれば山際の大沢に居た方が安心なのですが・・・。

 

北条家は領内の城塞鼻先に門徒寺があることそのものが「ウザい」というところだったのでしょう。そもそも寺は宗旨関係なく鬼門方向かその逆(裏鬼門)にまとめるというのも為政者の発想で、中心地(城砦)より南側にあることは少ないかも知れません。拙寺が新町から波津に移ったのはそれが理由ですね。

 

歴史的に見て真宗を敵とみなして排除した勢力は殆どが滅びているところも着眼したいところです。若き家康は三河一向一揆によって苦渋を飲まされたことから当初は「真宗禁止」にはするものの徐々にそれを許していっています。

真宗をうまく利し取り込んでいった家康が天下を取ったというのもまんざら過言ではないと思っています。

 

さて、私の母方の菩提寺は小田原板橋のお西の光円寺。

私が住んでいた城の真南から徒歩約10分の好立地。しょっちゅう墓参りに連れて行かれました。勿論平地です。小田原城の西で背後には土塁の遺構が残る寺ですが春日局の建立といいますから江戸期になってから。

そしてお東のお寺もやはり10分程度東に歩いた場所に正恩寺があります。御幸浜の近くで、相模湾が目の前という立地です(場所は鐘楼門について小田原市の解説サイトへ)。

 

この辺りも小田原の閑静な住宅地でかつては伊藤博文の別荘地(滄浪閣)がありました。私の小田原時代の「縄張り」ともいっていい場所です。

今やその別荘地は荒れ果てて御覧の通り(最後の画像)。

 

鐘楼門には「尾三相州轉遷之道場」とあります。

掲示板によれば「尾州海東郡富田庄に起立、後に三州額田郡土呂に移され、大久保相模守忠隣室妙賢院、当寺の住職信賢に帰依し、文禄二年(1593)、三州の寺を小田原に移し法性山妙賢院と号して菩提寺とした」ということでこちらも北条氏滅亡後に建てられた真宗寺院でした。

 

標記の通り、大久保忠隣の時代に建立されたのですが、私の大久保家のイメージは日蓮宗大久寺。この寺は光円寺から国道1号線をはさんで斜め向かい、子供の頃に境内で騒いで当時の住職に怒られた思い出があります・・・

 

何故に真宗かといえば彼の奥さんが石川家成(数正の叔父)の娘でチャキチャキの三河門徒だったというところでしょう。

ということでわざわざ三河から門徒寺を招いたという経緯があったのでした。

当時は主人と宗旨が違うということもあります。

もともと三河系でも松平配下の武将は真宗一本やりの傾向が強かったのですが、三河一向一揆からその雰囲気が変わって改宗するものも増えました。しかし家康の真宗への許しもあって公然と真宗門徒を名のる人も出て来たのでした。

 

拙寺の釋尼妙意が三方原で戦没した藤蔵正義をやむなく禅宗で葬儀を執り行ったあと真宗の本楽寺(拙寺大澤寺の前身)に入ったのもそのような感覚でしょう。