相良三町町割図(元禄二年)と檀家さん五家

昨朝からの雷雨には家中ネコども、気が気ではない様相を呈していました。私は吹き込みを警戒して本堂を見廻りましたが、殆ど無風で対処することなし。

墓地通路はまるで「川」状態でしたが、「こりゃあゴミが捌けてgood !」と少々不謹慎。

拙寺の「川」は門前の排水溝に集まりますので大量の雨が降れば自動で外部に排除されます。

 

地震について、「つまるところ何処で発生しても不思議は無いので日本全国一律警戒を怠るな」はここ数日ブログにて記しています。勿論これまで「発生確率が高い」と言われ続けた地方であっても、どこもかしこも条件は同じであるので「覚悟と準備」はしっかりしてくださいよ!!ということでした。

 

これは台風も同様ではありますが、地震と違って進路予想はできますね。事前対処、準備ができるのです。

そこが予知がまったくできないといわれる地震とは違うところです。

直近東北北海道に災禍をもたらした台風10号は大船渡に上陸したあとは日本海に抜けたあと、実は最近あの核ミサイル弾頭で勇ましくまた世界中にその名を轟かした「笑顔の首領様」のお国にも邪魔したそうです。

昨日報じられた数字をあげれば「死亡133、行方不明395で、東京ドーム3400個分の土地が浸水して10万人が住居を失った」といいますので日本の被害の比ではありませんね。

 

「火遊びが過ぎて罰が当たった」といってしまったら身も蓋もないでしょうが、それだけ我が国と比べて治山治水(福祉思想の最低限)への考え方が古典的でなお、台風への警戒意識が低く、結果的にその脆弱性を露呈してしまったのでしょうね。

 

歴史的に言ってあのお国にとって台風とは日本経由でたまにやってくるものであり殆どの勢力はそちらで減衰するものという認識が常識だったのでしょう(日本列島テトラポット消波ブロック論)。

まぁ国家予算のほとんどを軍事費に傾注するお国柄ですのでそれらを天秤にかけたうえの結果でしょうからいたって「自業自得」と指摘を受けても致し方ないのかもしれません。

 

仏教経典には別の格言で「天に唾す」なる言葉もありますね。

天にお灸を据えられたと言ったら被災者に申し訳ないですがこれで当分の間は首領さまお得意の花火大会はないと思うのは私の甘言?

 

宗教思想を排除する独裁国家の「政」がいかに国民を虐げることになるのか・・・防衛費と名を変えた軍事費の突出が目を見張る我が国ですが、そろそろほどほどにしていただきたいものです。

福祉のウェイトが下がって軍事費のそれが上がるという傾向が気がかりです。

 

また、台風16号は日本列島縦断コースが予想されていますのでこれも注意喚起したいところです。

こんなことを言ったらまた怒られましょうが、台風14号が日本の直撃を免れたのは何より安堵中の安堵です。

勢力は凄すぎます。890hpaの「猛烈」級ですから。

これは滅多に見ることはできない勢力で台湾・中国の被害想定はもしかすると「甚大」となるかも知れません。

船が陸を走り、鉄筋の電柱がバタバタと倒れるレベルです。

 

さて、史跡研究会の副会長の中村肇先生らが記した「相良藩」について・・・標記「相良三町町割図」があります。

野村氏より御指摘があった個所ですが「元禄二年相良町屋敷検地水帳」から転載とあってそちらに「庄右衛門」の名があると。

私は注意散漫まったく気づきもしませんでしたので「なるほど」と思った次第です。

なお「検地水帳」発祥の説に①水田帳②御図(みず)・・それぞれあるようです。

 

その図には勿論新町時代の拙寺の名がありますが、それにしても名だけでなくもっとたくさんの情報が欲しいところです。

しかし「庄右衛門」の名のりは100%野村家であることはわかりますね。

またその件、澤田翰氏による「相良今昔物語 4」②画像(⇦古の相良と子供の遊び)に触れられていました。

 

「駿河銀行は昔三十五銀行と言われ~」の件ですが、「明治初期まで野村屋敷」と記されていたことを伝えています。

そのあとに拙寺と五家の檀家さんについて記されています。

澤田翰氏に多少筆が走りすぎかも・・・の部分がありますが、これらの話はその五家の流れの各家それぞれに伝承されていることで、代々口伝のことのよう。私も小さいころから聞かされ続けていました。

 

③は野村藤太郎氏の記した文書で④⑤は須々木の増田本家にある額です。ガラスを通してでしたので反射があり、2枚になってしまいました。

ご自宅の中ということもあり、撮りなおしも効ききません。

左右画素数も違います。恐縮です。

これは拙寺13代目の祖父が記したものでした。

 

最後の画像は日本を去ったあとの10号の進路。

あの台風はあれから日本列島に前線を伴って再び舞い戻っているはずです。

あんなのがこれから頻発するというのならそれは恐ろしいことです。

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コメント: 6
  • #1

    野村幸一 (水曜日, 14 9月 2016 23:32)

    ありがとうございます!
    それぞれの家に口伝されているのですね。増田本家の額は迫力ですね!藤太郎さん、こういう冊子作っていたのですね。知らなかったです。私は歯科医だった野村庄十の家で生まれたのですが、こういう由来は伝わっていませんでした。庄屋と呉服屋、庄十さまと呼ばれた…くらいでした。自分で調査して初めて知ったくらいです。ま、その知りたい事が地方史とはいえ書籍に記述があったのはとてもありがたいことです。一町民なのですが…

    今後ともよろしくお願い致します。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 14 9月 2016 23:56)

    ありがとうございます。
    祖父の書による増田家の額、「近州」と「安土藩士」の件、ちょっとばかり
    お恥ずかしいところですが・・・たしかその額の最後に出て来る
    川原崎次郎氏が地元歴史家で先日求められたと仰っていた
    「相良藩」を中村肇さんと共著した川原崎淑雄さんのお父上です。
    この地区には河原﨑・川原﨑姓は多く、当家と共にした河原﨑家とは別系統です。

  • #3

    野村幸一 (木曜日, 15 9月 2016 00:17)

    なんとなく、川原崎次郎さんとご縁のある方かな?と思っておりました。中村さんは史跡調査会の方なのですね。やはり購入したのは正解でした。

    近江時代の今井家と五家の事、今以上に深く掘り下げられないものか…とよく考えます。

  • #4

    今井一光 (木曜日, 15 9月 2016 00:31)

    ありがとうございます。
    中村先生の家系は相良で最も古い家と言われています。
    八幡神社の神主の家系で父上は元相良町長
    高校教師退任後は田沼塾で歴史を教えていますね。

  • #5

    野村幸一 (木曜日, 15 9月 2016 10:25)

    明治6年の地引絵図を見ると右衛門、左衛門、兵衛、という名前がまず見当たらず野村庄右衛門も当家の墓碑に見るくらいで何故だろうと思っておりましたが、やっと理由がわかりました。明治3年に旧官名禁止令という太政官布告が出ていました。〜助なんかもダメだったようです。頭の文字だけ残して後ろは〜平、〜蔵、〜郎などに改名しなければならなかったようです。


  • #6

    今井一光 (木曜日, 15 9月 2016 17:53)

    ありがとうございます。
    官名はブログでは・・・助兵衛のところで触れていますが(20150220)
    旧官名禁止とは言っても当初は旧家において家の主人の「名のり」は大切だったため
    家によっては同じ名前が並んでいる場合もあるなどその布告の受け取り方の温度差はあったようです(一貫性なし)。別の名のりをするかそのままにするかは一概には言えなかったと思います。
    「兵衛」付官名由来の名は私の代にも散見されます。ご当家は新政府の御触れによく順応したということでしょうか。
    私も子供にその手の名を「付ける付ける」と周囲に口には出したものの、現実的に既に社会から容認されていないというか、子供がかわいそうになるほど奇異な名に成り果てています。「すけ」は「左」に通じていますね。現代では大した感覚はありませんが、古来から「やんごとなき」人の居る場所(宮殿)を意味するので庶民の名のりにすることなどは「けしからん」ということになったのでしょう。