厚くて重そう  長岡京の瓦に感激 朝堂院跡公園

「話せばわかる」は犬養首相が5.15事件にて青年将校たちに発した言葉。「問答無用」は彼らのその応答で、結果首相暗殺という恥ずべき事件を起こしました。

これは会話を拒否して意見を聞かないといういわゆる「独善の作法」であり、宗教はそのような人間関係を勿論否定しています。当然それは「話にならない」ことであって何らの物事の進展に繋がりませんね。

 

今、お隣のあのやんちゃなお国の首領さまはドンパチと花火を打ち上げては悦に入っている姿を見せつけていますが、よくもまぁおカネが続くと驚かされます。「花火」は資金力が無くてはその脅しを維持できませんから。

緊迫した財政で国民に苦難の生活をもたらしていてもそれをし続けられる経済力とはいったい何なのかまったくもって不思議です。

 

ここのところハチャメチャになっているようにも感じますが、一昨日でしょうか今度は3本まとめて日本の排他的経済水域に着弾したというニュースを各局報じていました。

北海道奥尻島の西250㎞と聞きましたが、そもそもそういった報道は必要なのかちょっと疑問です。

 

ハチャメチャに撃ちまくっているロケットの精度情報をお相手に教えてあげているいるような気がしてなりません。殆ど未熟な技術であったはずなのにそういった情報を流してしまえば、きっと今頃修正課題等の情報を得て大喜びしているのではないでしょうか。

本当は黙って白っとぼけているのが一番なのかも知れません。国家として「話にならない」レベルであっても同じ席に着いて膝を交えることは必要でしょう。しかし、あそこまでくるとお手上げの感が無いでもありません。まぁ国際的な場に引きずりだして説き伏せていただくしかないでしょうね。

 

日本は「やられた」「やられた」と国内の対抗意識と国家安全の思想に火をつけて、防衛費予算最高突出の追認を計る宣伝に使うのは顔をしかめるところ。

それが「先制攻撃してあの国をせん滅しちまえ」思想に通じるのでしょう。以前にも記しましたが「先制攻撃に核は使いません」(アメリカ大統領)発言を「ちょっと待って」とばかりに否定したいという人(総理)があったという報道がありました。

 

「お話にならない」と思ったのが桓武天皇だったのかも知れません。南都(平城京)にはこれ以上いられないという思いだったでしょう。

桓武天皇は今では長岡京よりもそののちに遷都した794年の平安京、現在の京都の方で有名で歴代天皇知名度では断トツの人。当初はお母さんが百済系渡来人ということで天皇継承順位は低かったようです。

そしてまた天武天皇(40代)からの男系が途絶えて長らくの天武系の時代から返り咲いた天智(38代)系でした。

大友皇子―弘文天皇(39代)以来です。桓武天皇の父親の光仁天皇(49代)まで雌伏の時代を送っていました。

 

天皇家継承を得たとなるとどのようなややこしさが残るかと言えば・・・

①継承に尽力し、そのバックアップとなった者たちに頭があがらない

②天武系が弱体化したのは天皇家内の足の引っ張り合い

③それは周囲の豪族たちの発言権が強くなったため

④それに加えて巨大化した奈良仏教の主宰者(僧侶)があれこれ

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ですね。そこで今までの「話にならない」ようなしがらみから気を使いながらも心機一転桓武天皇が遷都したというのが長岡京でした。

10年で平安遷都となったのは桓武天皇の後ろで長岡京遷都を画策した藤原種継が矢で射殺される事件に発展し、結局は大きなゴタゴタに発展、当初天皇の希望としてあった「河川近くの物流の拠点となる都」の意図が仇になって河川の氾濫による治水不能の連続が早々の平安遷都となったという説が一般的のようです。②図は北側から見たイラストですが正面の山が男山で右側の丘陵の先に天王山があります。

 

旧態勢力に「気を使った」という点は新都造営に関して通常は今ある都の建物を解体してから引っ越すというカタチをとっていたところを当時平城京とW機能としてあった難波宮からの解体移動の形跡があるところですね。

難波宮から出土した瓦と同様のものが発掘されているようです(画像④)。

不足部分は平城京のものを真似て作ったといわれています。

 

瓦は素朴、明らかに焼成温度の低そうなもので、分厚く重たそう。その分、確りと自重を支える耐力のある建造物が建てられていたのでしょう。しかし釉が無いため水分も含みそうで相当の重さになったかも知れません。

 

こちらの瓦が展示されている場所は(画像③)大極殿通の長岡京朝堂院跡、朝堂院公園の案内所です(場所はここ)。

「朝堂院」とは「朝廷」の南にある官舎群のことでこちらで政務が行われます。

長岡京での特筆は藤原宮に恭仁宮そして平安宮では12堂(左右対称6+6)なのに対して長岡宮では8堂(4+4)だったそうです

(図①)。