海近くして東(遠)海寺とは是如何   家光が問う

あの台風10号のこれまでの信じられないコースと今後の進路に変針と列島上陸横断の予想、そしてそれが現在の945hPaの中心気圧を維持してでしたら被害は半端なモノではないでしょう。

最新の進路図の中心を見れば、震災津波で被害のあった地区を襲おうとしています。塩釜、松島湾でした。瑞巌寺や「五六八姫」も気が気ではないでしょう。

末の松山」でしたら気の毒ですね。東北直撃なら初めてのことだそうです。

 

建物や人的被害もさることながら秋の収穫時期前でもありますので、農作物の被害が甚大になることは優に想像できます。

大きな川の氾濫がなければいいのですが・・・くれぐれもご油断召されるな。

福島原発は「自然の不可抗力」を理由に汚染水をぶちまける事莫れ。

 

さて、昨日の東海寺墓地は結構わかり難い場所にありますので追記させていただきます。万松山東海寺の墓地と今は飛び地になっているもののかつての寺領が広大な敷地であったことは推す事ができますが、現在の東海寺からは意外に離れています(場所はここ)。

 

これはこの寺が徳川幕府絶頂期、三代家光が創建した寺で将軍が絶対的バークボーンとしてありました。

ということは明治維新を迎えて特に廃仏毀釈の嵐が吹きつつある中、これまでの幕府との親密性を問われて解体に近い形での維持を余儀なくされたのだと思います。

 

家光は臨済宗大徳寺派の沢庵を招いて東海寺を任せます。

幕府の寺院と公家対策の法度(禁中並公家諸法度等)により起こった紫衣事件によって一旦は沢庵自身の流罪と臨済系大徳寺派・妙心寺派の危機的状況を招きますが、沢庵の名利を求めぬ「人と成り」と機知に富んだ知性が高評価を得たことにより許され後世に臨済宗と沢庵の名を残しました。

家光が東海寺を任せたのは沢庵67歳、江戸にて没したのが74歳ですから晩年のことでした。

 

沢庵は関ケ原勃発時は石田三成の客人で佐和山城に居たそうです。敗戦の報を聞いて城を脱出したところはしょうがないといえばしょうがないのですが、ちゃっかりしています。

大徳寺では塔頭寺院の三玄院住持との交流があったそうで、そちらに処刑された石田三成の遺骸を引き取り葬ったというのが沢庵ですね。三玄院は拝観不可ですが、門前の画像は下図。または

こちら

 

標記の家光の問いに沢庵が答えたのは「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」との即答の言葉遊び。後世その手の問答が流行ったそうです。

 

墓地へは山手通りと東海道線が交差するあたりの細い道(最後の画像)を上がっていきます。その画像の前2つがその細道手前に「近代硝子工業発祥の地」の碑が建っています。勿論その工場もかつての東海寺敷地だったようです。

 

沢庵は生前自分の墓は要らないと言ったそうで、彼らしく大き目の自然石が墓域に。石の柵がなければわからないくらいです。沢庵没後108年経った宝暦三年(1753)に建てられたとのこと。

結局後継者・弟子たちからみれば「墓は要らない」では済まないのでしょう。

「利休居士追遠塔」の石碑は天明三年(1783)千利休二百回忌の7年先だって建てられたもの。大徳寺との関わりが見て取れます。